2025年2月2日

規律と自由

佐々木俊尚氏が紹介している、山﨑エマ監督の映画「小学校~それは小さな社会~」。映像は見ていないけれど、記事の内容から感じるのは、同じように日本の小学校や子供の様子を配信しているYouTubeの様々な動画に対しての海外からの反応と同じということ。自分も小学校時代は、こう言うことを六年間経験しているし、賛否は今の時代あるとは思うけれど、やはりあの年代くらいに経験して身につけておくスキルというか「作法(マナー)」という意味で、私は好意的に考えています。 

勿論海外の子供達、自分の場合は殆どがアメリカの友人達の家族なんだけれど、子供教育は「家庭」の責任みたいなところが大きかったように感じます。作法厳しい家庭とか、ある程度自由にしている家庭とか。まぁ、お国柄的に「自由」が最大のテーマの国なので、日本の目線で見ると「作法に厳しい」と言っても、よほど厳格で無い限りは「自由放任だよなあ」と感じる事も多かったけれど。その代わり、学校によっては厳しく躾を歌うところもあって、そう言う意味では両極端なところはあるかもしれませんね。

多感な人格形成や「個人」として成長している時期の6年間にこういう環境にいるから、多くの場合はその後もそういう資質は維持されて、今の「整然とした日本社会」というスタイルが生まれていると思うんですが、例えば中学生の頃は過渡期としても、高校生とか大学・社会人になってからは、そういう規律を謳うことも無くなり、かと言って個人の特性を伸ばすような教育とか環境も豊富なわけでも無く、折角獲得した良い基盤をそのまま人生の資産・遺産として費やしていくだけみたいな状況が、ある意味日本の問題点というか課題点では無いだろうか。小学生の頃にしっかりと基礎資質を獲得したところで、中学生くらいから個人の興味だとか能力を生かすような環境があると、日本の社会ももう少し一皮抜けて脱皮するような気がします。最近だと、デジタル技術の導入もありそういう方向性が生まれつつ有るのかもしれないけれど、それが今度は基本的資質構築機の小学生にまで浸透して、脆弱なまま大きなテーマ追求だけするようなリスクにはちょっと気になっています。

「集団」で生活するという事は、色々な摩擦も生まれるわけで、それを互いに妥協しながら軽減しつつ満足度もできるだけ高く維持して行くには、やはり「ルール」は必要だと思うんですよね。「多様性」という話だって、今批判されるのは、元々あった環境にいきなり新しい「ルール」を持ち込んで、それを中心にしようとするから最大摩擦が生まれる。まずは、既存のルールと新しいルールをちゃんと摺り合わせをして、互いに妥協できる部分と譲れないところを出して、その中でも摺り合わせをして行くという作業をして、尊重するところは尊重する、分離と言うか関わらないところはその様に互いに無意識に入れることで「受け入れる」みたいなことをやらないと、本当の意味での「多様性」にはならないと思う。この小学校の共同生活というか、共通社会経験というのは、色々な子供達の共通基盤を作るという意味で重要だし、それが大人になっても維持されているところに、日本の良さもあると思うんですよね。だから、海外から移住なり帰化するなりして日本で生活する場合には、もう一度小学生からやり直せとは言わないけれど、その意図というか基盤は優先するべきだと思うし、受け入れてほしい。「自分の国では○○だった」というのであれば、「それはそこの話で、ここの話では無い」で終わりだと思う。それでもそれを優先してほしいのであれば、やはり全員が納得出来る説明をすることは義務だと思う。それをせずに、何か人情話的浪花節的論法で通そうとするから、そういう一部の人達に対しての風当たりは強くなるだけで、結局は誰も得しない状態になっているのが現状だと思う。

 

AI技術の腕の振りどころ

元産経新聞記者・三枝玄太郎氏のコラム記事。先日の長野駅前殺傷事件の犯人逮捕に繋がった、各種ビデオ映像を繋いで足取りを操作する「リレー操作」に関して。「リレー操作」とは、住宅地などの防犯ビデオや、店頭などの防犯ビデオ、さらには車載ドライブレコーダーの映像などを順番に綱があわせて、犯人の足取りを類推しながら特定していくもの。私は生成AIに関しても、こういう警察捜査にも素人何だけれど、こういうリレー操作に関してはまさに生成AIの腕の振りどころじゃ無いかと言う気がするんですよね。

例えば私が思いつくのは、先ず固定カメラや写真等の映像データを、

  • 撮影場所
  • 撮影方向
  • 撮影時刻
と言った属性データとともに、どんどん生成AIに登録します。同様にドラレコや防犯カメラの映像も、

  • 映像開始時の
    • 撮影場所
    • 撮影方向
    • 撮影開始時刻
  • 映像終了時の
    • 撮影場所
    • 撮影方向
    • 撮影終了時刻 
  • 撮影開始・終了地点を含む地図データ
と言った属性データを点けて登録します。生成AIは、先ず基点となる犯行時、あるいは犯行後で犯人が特定出来る映像をスタートとして、

  1. 属性データから、基点データの撮影場所に近い物を抜き出し、連続すると想定されるデータを拾い出す
  2. 同様に、基点データの撮影開始時刻に近い物を抜き出して、連続すると想定されるデータを拾い出す
  3. 拾い出されたデータを今度は基点データとして、そこから関連すると想定されるデータを拾い出して繋げていく
  4. これを基点データから遡る(犯行前の足取り)方向と、進む(犯行後の足取り)方向のデータストリームを生成AIが構築していく
  5. ある程度足取り操作、あるいは途中でデータ連係が切れたような場合には、人出で補正を加えていく
というようなコマンドプロンプトを与えて(実際にはもう少し詳細化が必要だろうけど)行けば、結構簡単に足取り操作の情報が作成される気がします。勿論、少しのデーターでもとんでもない分岐ツリーが生まれるだろうけど、そこにどんどん新しいデータを追加して、何とでも再評価出来るのが「生成AI」の最大のメリットですからね。今だと、例えばドラレコには位置情報や時刻情報等含まれているから、ドラレコを登録すればそのまま多分利用出来るでしょう。防犯カメラ映像にしても、設置場所は分かっているし、タイムスタンプも中に含まれるだろうから、これもほぼそのまま映像データを生成AIに突っ込めば活用できそう。後は、個人がスマホで撮影したようなデータのように、不確定だけれど結構重要なデータをどれだけ取り込む事が出来るかが重要でしょうね。最近では、既存メディアがそういう一般人からの映像投稿を自分達が利用するために、投稿サイトみたいなものを儲けているけれど、ああ言うものを利用してもいいかも。データをアップロードするだけだから、もし実際の操作に有益であったら、報奨金みたいなものを出しても良いと思う。AIによる偽装映像や悪戯目的の投稿を防ぐために、マイナンバーでスクリーニングするとかしてもいいかも。

今は、記事にもあるように、捜査員の勘と経験が点と点を結ぶ重要な能力なんだけれど、生成AIでもこういう動画を活用してリレー操作の経験を積ませれば、その「経験値」がアルゴリズムとして「捜査AI」に蓄積されて、より精度の高い評価をするように成長するかも。まさに生成AI技術を今投入するべき分野のような気がします。

2025年2月1日

新幹線停車増加

数日前に、鈴木県知事と丹羽JR東海社長が会談。その中で丹羽社長が、リニア名古屋開通時には現行の静岡・浜松停車のひかり号を1時間に1本から2本に、大阪まで開通時にはさらに増便して、かつその他の県内駅逓社も考えるという、かなり前向きというか大盤振る舞いの発言があったと言う事で、ローカルニュースではずっとこの話題を取り上げています。 

私も「おやっ!」と思ったのは、ひかり号停車増加を言うのに「静岡、浜松停車の」と、静岡・浜松を同様に増やすことを明確に言っていたこと。現在早朝・深夜帯を除けば、静岡・浜松停車のひかり号は1時間に1本で、これを2本に増やせばかなり都心方面や簡易西院方面への移動の自由度が増します。今だと、ひかり号を逃すとその後のこだま号を捕まえるより1時間後のひかり号に乗った方が早かったりするけれど、それが約30分間隔で停車してくれるなら余裕で待てますしね。但し、今二本あるこだま号が、上り方面(東京行き)は浜松から見ると変わらないけれど、下り方面(名古屋、新大阪行き)は、2本とも名古屋止まりになるかもしれませんね。

更に驚いたのは、リニアが名古屋から大阪まで延伸したときには、さらに静岡・浜松停車の新幹線を増やすとともに、その他の県内駅逓者の増加も検討するという発言。今のぞみ号がカバーしている、東京-名古屋-新大阪のそれなりの乗客がリニアに移動すれば、例えばのぞみ号の静岡停車、浜松停車、という運行パターンも生まれてくるかも。まあ、それをそのままひかり号として運行してもいいわけですけど。そうなると、例えば1時間に3本でほぼ20分間隔で運行してくれると、自分がよく利用する浜松から都市方面、その逆に都心から浜松帰宅がかなり便利になるけれど、その頃まで自分は存命なのだろうか(笑)。

ただ、そういう新幹線停車増便に関しては、あくまでリニア開通が前提条件。肝心な静岡工区は、川勝時代と異なり色々な議論や会合も活性化されてきているけれどまだまだ事実上停止したまま。浜松市長時代はリニア推進派だった鈴木市長も、県知事となると立場が大きく変わるわけで、そこは彼も以前のような発言は出来ないのは仕方ないですしね。ただ、大井川流域市町の首長の考えも柔軟になってきているし、正直なところトンネル開通でどの様な状況になるかは不明。想定と対策をしっかり積み重ねて行くことは、今は優先するしかないけれど、それとともに少しでも早い開通が実現出来るような準備も並行して進めて欲しい。例えば作業用道路の敷設は地元の利益にもなるわけだし、それが出来ても問題は無いはずですしね。是々非々で構わないから、前を見た話合いと実行を期待したいですね。

脳と身だしなみ

こちらも、佐々木俊尚氏紹介の記事から、身なりと脳の状態は相関する、という話。年齢的に、「老後の生活」が切実な問題になりつつあるので、やはり健康で自分の手や足を使って他人に迷惑掛けること無く生活するというのは、どんどん最優先事項になっています。怪我とかして不自由になるのも困るけれど、それらを動かす「脳」の働きが衰えるのはもっと困るわけで、その場合は手足の運動機能だけでなく、日常生活に必要な記憶ダとか判断だとか、そういう部分まで影響する話に。

筆者の方は、約16万人もの脳MRIを診察・解析して、そこから脳の状態と見た目は相関がある」と言われているので、説得力を感じます。まぁ、「脳」というのは人間の行動や思考全てを司る存在だから、そこに何か問題があれば外部にもその影響が出るであろう事は理解出来ます。例えば、脳に何か異常が発生して「嗅覚」に問題が生まれてしまうと、それこそ体臭だとか香水の付け方とか、当然変わってくるだろうし、「色彩感覚」が変化してしまえば衣類の好みとか傾向も変わってくるだろうし。ただ、その要素の一つ「サイズ感と色合わせ」に関してはちょっと困るのは、サイズ感に関しては好みの問題もあること。私は、どちらかと言うと少し余裕がある、「ゆったり感」が感じられるサイズが好きで、今の主流である「スッキリ」とか「シャープ」さ見たいな感じとはちょっと異なるんですよね。まぁ、「ゆったり感」と言ってもワンサイズ、ツーサイズ大きいものという意味ではなく、スーツで言えばヨーロッパ系のぴっちりした感じではなく、アメリカントラッド系の少しだぼっとしたものが好みということ。

もう一つ重要なのは、そう言う傾向になる事で、人との会話、コミュニケーション機会が増えることで、生活が活性化されて結果見た目も整えるようになるし、整えることでそういう場に行きたくなるという話。自分はどちらかと言えば「内向的」で、余り人と話をするのは得意でも無いし好みでもないのですが(その割には、仕事でのプレゼントかお客様コールの時には「上手い」「饒舌」「分かりやすい」「名人芸」と言われるのは何故? 笑)、それでもやはり何らかの形で外部との情報交換は継続する必要が有ることは痛感しています。個人的には、自分との比較対象がある事である意味客観的に自分を振り返ることが出来るから、そう言う機会が多ければ多いほど、自分自身も活性化されていくのだろうと思います。そう言う意味では、幾ら外部との会話が多くても、それなりに良質な相手や内容にしないと意味が無い訳で、その点今のネットワーク時代というのは安易に情報に接しやすい、相手のことを良く理解する前に信用してしまうリスクが問題なのかなあ。ネットを利用して広く相手を探して出会えるメリットは大きいと思うんですが、やはり松竹梅とか玉石混交じゃないけれど、そういう所は実社会と同じですからね。

そう言う事って、外から良い刺激を受け取る「外部刺激」の話だと思うんですが、それとは逆に自分時間が常に探究心を失わないというか「好奇心」を失わないことが重要と言う最後のページの話も何となく腑に落ちます。やはり、インプットだけでは「知識(データ)」としては増えても、「情報」としては活用出来なくては意味が無い。インプットとともにアウトプットもすることで、知識の整理も出来るし、そこから情報として生きた活用法にも繋がるはず。それって、やはり自分の中で「このデータはこう加工したらどうなるんだろう」という、興味や好奇心やさらに言えば「向上心」を持ち続けることが一番重要ですよね。世の中のことは、知らないことが殆どな訳で、その中から一つ理解し、二つ認識し、三つ身につけることが出来れば、それは知識欲を満たすという「報酬」になり、更に次の報酬へと興味が拡大する事が大切何でしょうね。ある意味、それって年齢に関係無く「夢」を持ち続けることなのかもしれない。

メディアファンディング

「武富士ダンサーズ」って、ドンピシャ世代です(爆!)。当時も「サラ金(サラリーマン金融)」と言われていたものが、暴利を貪る悪徳金貸しみたいな印象になると、体裁を整えるためか「消費者金融」と名前を変えたんじゃ無かったかな。ただ、3割、4割、5割という嘘みたいな金利はそのままで、でも担保は勿論理由も聞かずにお金は貸してくれるから、色々な意味で困っている人には助かる存在とも言われていた気がします。

CMも、最初の頃は一日中流していたけれど、途中から色々帰省が入ってくると、深夜帯だけに最後はなったのかな。逆に夜遅くになると、消費者金融のTV CMばかりになったような記憶があるなぁ。当時のTV CMでよく見る企業と言えば、まずは化粧品関係で、その次がお菓子メーカーとか食料品関係かな。で、消費者金融のCM露出は、それらを上まわっていたと思います。広告料として、時間帯とか視聴率の取れる番組の中でとか、そういう場面よりも、とにかく数で押すみたいな感じだったかな。当時の噂で、売れ残ったCM枠は消費者金融に相談すれば、直ぐにその場で契約してくれるみたいな話が有ったとか無かったとか。そう言う意味では、広告費の額も大きかったんだろうけど、本来は売れ残るような枠とか、なかなか買い手が付かない時間帯なんかでも、どんどんCMを出してくれるテレビ局の営業からしたら「打ち出の小槌」みたいな存在が、当時の消費者金曜業界だったと思います。

実は、1990年代から2000年代に掛けて、コンピューター業界でのお得意さん企業の一つが、実はこういう消費者金融業界だったりしたはずです。知り合いの営業が「明日は武富士へ売り込みに行く」とか言っていたのを聞いて「をぃをぃ大丈夫かよ」と心配したことは何度もありました。色々聞くと、結構彼らもコンピューター化にはお金を掛けていたようで、中小型機系の結構良いお客様だったらしい。しかも当時は全国に支店と言うか出張所みたいな店舗展開をしていたから、結構ネットワーク化の話なんかも先進的に進んでいたらしい。で、そのうちに色々規制が厳しくなり、中小から大手も倒れていき、どんどんメガバンクがリテール向けに買収したりして、一つの時代は終わったわけですが、ある意味自分の関係している業界的にも「激動の時代」を象徴する事象の一つと言ってもいいかも。

この消費者金融がCMでメディアを制していると言う話は、他の大口の顧客だって昔から同じじゃなかったかな。出、そういう所に対しての報道は、やはり曖昧というか手心を加えたものというか、そんな空気というか話は以前から有った話。考えてみたら、テレビ局のビジネスモデルって、クラウドファンディングみたいなものですよね。つまり「こういうコンテンツ作ります。付いては経費・制作費・その他ご支援ください」と言って、広告を獲得していくわけですから。で、広告を出す方も、「視聴率は○○%を予定していて、視聴者のセグメントはこれこれで、ですから御社の製品に対しての効果はこれくらいで」と言われて、それ以上になるかもしれないし以下かもしれないという、ある意味ギャンブルみたいなもの。そのギャンブルに対して、どんどん賭け金を掛けてくれる乗客に対しては、やはり多少の無理も利きましょう、無礼にも片目つぶりましょう、となるのは仕方ないと思うけれど、日頃そう言うことを批判している立場の人がやったら、やっぱり駄目でしょうね。まぁ、そうで無くても互恵取引は駄目なんだけれど。