公開中のこの映画は本当に素晴らしいので多くの人に観てほしい。山﨑エマ監督「12歳の日本人は欧米の子どもと違う。学校でさまざまな役割を与えられ、コツコツと大人になる訓練をしているから」/日本の普通に世界が驚いた: 映画『小学校~それは小さな社会』 https://t.co/rIL66Rc4Nn
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) February 1, 2025
佐々木俊尚氏が紹介している、山﨑エマ監督の映画「小学校~それは小さな社会~」。映像は見ていないけれど、記事の内容から感じるのは、同じように日本の小学校や子供の様子を配信しているYouTubeの様々な動画に対しての海外からの反応と同じということ。自分も小学校時代は、こう言うことを六年間経験しているし、賛否は今の時代あるとは思うけれど、やはりあの年代くらいに経験して身につけておくスキルというか「作法(マナー)」という意味で、私は好意的に考えています。
勿論海外の子供達、自分の場合は殆どがアメリカの友人達の家族なんだけれど、子供教育は「家庭」の責任みたいなところが大きかったように感じます。作法厳しい家庭とか、ある程度自由にしている家庭とか。まぁ、お国柄的に「自由」が最大のテーマの国なので、日本の目線で見ると「作法に厳しい」と言っても、よほど厳格で無い限りは「自由放任だよなあ」と感じる事も多かったけれど。その代わり、学校によっては厳しく躾を歌うところもあって、そう言う意味では両極端なところはあるかもしれませんね。
多感な人格形成や「個人」として成長している時期の6年間にこういう環境にいるから、多くの場合はその後もそういう資質は維持されて、今の「整然とした日本社会」というスタイルが生まれていると思うんですが、例えば中学生の頃は過渡期としても、高校生とか大学・社会人になってからは、そういう規律を謳うことも無くなり、かと言って個人の特性を伸ばすような教育とか環境も豊富なわけでも無く、折角獲得した良い基盤をそのまま人生の資産・遺産として費やしていくだけみたいな状況が、ある意味日本の問題点というか課題点では無いだろうか。小学生の頃にしっかりと基礎資質を獲得したところで、中学生くらいから個人の興味だとか能力を生かすような環境があると、日本の社会ももう少し一皮抜けて脱皮するような気がします。最近だと、デジタル技術の導入もありそういう方向性が生まれつつ有るのかもしれないけれど、それが今度は基本的資質構築機の小学生にまで浸透して、脆弱なまま大きなテーマ追求だけするようなリスクにはちょっと気になっています。
「集団」で生活するという事は、色々な摩擦も生まれるわけで、それを互いに妥協しながら軽減しつつ満足度もできるだけ高く維持して行くには、やはり「ルール」は必要だと思うんですよね。「多様性」という話だって、今批判されるのは、元々あった環境にいきなり新しい「ルール」を持ち込んで、それを中心にしようとするから最大摩擦が生まれる。まずは、既存のルールと新しいルールをちゃんと摺り合わせをして、互いに妥協できる部分と譲れないところを出して、その中でも摺り合わせをして行くという作業をして、尊重するところは尊重する、分離と言うか関わらないところはその様に互いに無意識に入れることで「受け入れる」みたいなことをやらないと、本当の意味での「多様性」にはならないと思う。この小学校の共同生活というか、共通社会経験というのは、色々な子供達の共通基盤を作るという意味で重要だし、それが大人になっても維持されているところに、日本の良さもあると思うんですよね。だから、海外から移住なり帰化するなりして日本で生活する場合には、もう一度小学生からやり直せとは言わないけれど、その意図というか基盤は優先するべきだと思うし、受け入れてほしい。「自分の国では○○だった」というのであれば、「それはそこの話で、ここの話では無い」で終わりだと思う。それでもそれを優先してほしいのであれば、やはり全員が納得出来る説明をすることは義務だと思う。それをせずに、何か人情話的浪花節的論法で通そうとするから、そういう一部の人達に対しての風当たりは強くなるだけで、結局は誰も得しない状態になっているのが現状だと思う。