意図的な報道規制の話もネット界隈では囁かれている、辺野古沖転覆事故。これ以外の事件・事故に関しては、連日大きく取り上げられる機会も多いのに、それら事件・事故と同等それ以上の出来事と思われる辺野古沖転覆事故に関しては、文科省が学校法人同志社へ直接聞き取り調査に入ったという報道以降、殆ど目にしません。唯一と言って良い情報としては、ご遺族のnoteで四十九日法要が済んだことと、お姉さんのコメントが掲載されたことが新しい情報でしょうか。
大手のメディアの中では、産経新聞の沖縄支局長である大竹直樹氏が継続的且つ多角的に取材を進めている様子が伺えるけれど、やはりそれ以外の大手や地元メディアの反応はそんなに大きくないというか殆ど見えない状態。地元紙の紙面が地元以外では中々読めないのは有る程度仕方ないけれど、でも地元発信の情報があればネットで日本中世界中に拡散される時代でもあるので、そちらの網にも引っかからないということはやはり地元発の情報が少ないと言うよりは「薄い」という状況じゃ無いだろうか。でも地元紙の記者などは、自分達はしっかり配信している、記事検索をして見れば多くの記事が検索で表示されると反論しているけれど、それに関しては「量より質」の問題、ある意味情報論的な話じゃ無いかと思っています。
記事件数の多少を比較するのは、言ってみれば「データ量の多少」を言うに等しいと思います。要するに「この件のデータは、何GBあります」というような話。一方で我々が新聞などのメディアに期待することは「データの内容・質=情報の多少」に関して。つまり、事件の詳細や背景、さらには学校・日本基督教団・基地反対派団体との関係性や、それら組織による事故に対しての対応や証言などに関して、その内容をより精確且つ密度濃く伝えるかがメディアの役割というか使命と言っても良いはず。例え何百という記事を配信しても、同じ様な内容だったり曖昧な記述あるいは「辺野古転覆事故」と言いながら辺野古基地建設の是非等的外れな内容を伝えているのでは、それら記事は雑音(ノイズ)と一緒。連日大量に事件関連の「報道」がされたとしても、その内容が通り一辺倒であった李、タイトルでは「辺野古」銘打っても事件とは直接関係無いようなこれまでの時代背景だったりを伝えるだけならば、それはこの件に関しての「報道」とは言えないのでは。
自分が見た範囲では、沖縄のメディア発の記事では、辺野古転覆事故の本質よりも基地反対派による「平和教育」や「反対活動」に言及しているものが多く、且つそれらの考え方や行動を「錦の御旗」として扱い、それ故に言い方は悪いけれど「尊い目標のために貴重な命が犠牲になってしまった」みたいな勝手な解釈を免罪符にしているような印象を強く受けます。一読者による投稿を掲載し、恰も犠牲者も納得して乗船したのに犠牲になって残念みたいな勝手な解釈を結論にすえたことで大きな批判を浴びて、慌ててその部分を削除したけれど確かその読者投稿の記事はそのままのはず。結論が間違っていた(=削除した)のであれば、その投稿自体意味を持たないものでは無いだろうか。行きすぎた「平和教育」や「抗議活動」の内容が問題なのに、それらは正しい行為という大前提で報道するから、何十本、何百本と記事を配信しようが違和感しか感じない。それらは、今回の事故とは別に批評されるべき内容であれ、取り上げるのであればそういう考えがどの様に実際の事故に影響したのか、そこをまず深掘りするべきだと思うのだけれど、肝心なところは曖昧なまま。だからなのか基地反対派団体は自分達が不当に報道圧力に晒されて批判されていると、見当違いな発言をする始末。そこが正されないと、こう言う悲しい事故はまた再発すると思う。
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