これは個人的な見解であり、わたしの観測範囲の話でしかないのですが、「年齢を重ねても新しいものを受け入れる人」には謙虚な人が多いという印象があります。
— 佐々木俊尚 新著「フラット登山」4/23発売! (@sasakitoshinao) March 27, 2025
謙虚だからこそ、自分のこれまでの理解を越えてく…
(残り536文字)#mond_sasakitoshinaohttps://t.co/lZcY3Toeoh
佐々木俊尚氏のmondeから、年を重ねても新しい興味や自身の成長をいとわない人は謙虚な人が多い気がするという話。「謙虚」という言葉の解釈にも寄るけれど、ある意味貪欲さを失わないというか、知らないことを知る喜びみたいな物が、自分に対しての報酬として価値ある物という認識と、それを数多く獲得するためにはまずは自分の間口を常に広げておくことが必要という要素を一言で言い表したのが「謙虚」なのかも。
mondeの回答を読んで感じたのは、自分としては座右の銘ともいえる「無知を誇るな、無知を恥じるな」ということも、まさにこの「常に謙虚であれ」という事と同じじゃ無いかな。相手の対しての戒めである「無知を誇るな、無知を恥じるな」に対して、自分自身に対しての戒めともいえるのが「常に謙虚であれ、尊大になるな」とかかな。例えば「食べ物」に関して、有名なお店とかブームの食材をいろいろ経験していくうちに、なんとなく自分がその専門家みたいな気持ちになり、蘊蓄の一つも傾けたくなるのが「謙虚さを失う瞬間」なのかも。 会食をしているときなどは、その場の雰囲気を盛り上げたりするために、そういう話題を振ったり提供することも一つの「技」なのかもしれないけれど、それがどんどんエスカレートしていくと不愉快な空気が満ちてくる状況になりがち。少し前に、やはり佐々木氏が寄稿されていたSNSの炎上に関しての記事で、「教えてくん」の「Taker」ではなく、相手に情報を渡せる「Giver」になる事で、さらなる機会が生まれるという話をされていますが、何でもかんでも口を挟んでくる「Giver」は迷惑なだけであり、やはりそこには価値ある「Giver」にならないと意味が無い。その要素の一つが「謙虚」さなのかも。
自分はまだ新しい事・分野に対しての興味が続いている方だと思うけれど、それでもバリバリ仕事をしていた30代くらいの頃と比べると、ずいぶんと「ずぼら」になった気がします。ただこの状況も少し考えてみると、自分自身だけで無く周りの環境の変化の影響も大きいと思います。その当時だと、YahooとかGoogleのポータルサービスや検索サービス黎明期の頃で、自分からいろいろな手段手法で情報を「獲得」しないと駄目な時代でした。一番代表的な手段が「読書」だったわけです。ところが今の時代(10年くらい前頃かなぁ)、SNSには真偽不明な情報があふれているし、さらにターゲティングの影響でちょっとした切っ掛けでその分野の情報がどんどん自分の前に提供されていく。となると、自分の手を動かさなくても自動的に向こうから情報がやってきて、それで満足してしまう十分と思う状態になっていることが一番の問題だと思う。情報リテラシーの一番の基礎「まずは疑え」ということが、今一番重要視されると思いますね。
おいしいものに目がない人が、「初めての味」と思う出会いを求めても良いし、コスパ重視の人はそういうお店巡りをすることも良いでしょう。一方で、お気に入りのお店に時たま立ち寄って、静かに自分の時間を満喫することをよしとする人もいるでしょう。ある程度年齢を重ねてくると、そういう自分なりの「型」というか「スタイル」というか、年月によって作られてきたものがあると思います。その中にいることが一つの「安心」を感じる要素なのも事実」。で、その中に埋没してしまいそれしか見向きをしなくなるのが「老害」みたいなものへと変化していくのかも。だんだんと視野が限られていく中でも、その視界の中には無限の方向が存在しているわけだから、振り返ることや視点を変えてみることをいとわないちょっとした勇気が「謙虚」というものの一つの状態じゃないだろうか。そのためには飽くなき追求欲というか、貪欲さ、場合によっては知識に対しての飢餓感みたいなものを失わない忘れないことが年齢に関係なく必要だと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿