「無知を誇るな!」
いゃぁ、未だに名言だと思う。無知で有る事を恥じることは無いし、そのこと自体はどんな場合でも有ること。だからこそ、真摯に質問し知識を増やしていく、そこから経験値を増やしていくことが大切なわけです。それによって、自分自身も成長するし、問われた側も改めて知識の再認識をすることが出来たり、調べ直して新しい理解や解釈を得ることも出来る。そういうWin-Winの関係であるならば、無知である存在も歓迎されるわけです。ところが、その当時某コンピューター会社のそれなりに知識を持った人達の集まりの世界であってすら、「教えて君」だったり、自分の無知を棚に上げて文句を言う人、自説をひたすら主張するだけの人、根拠を説明せずに相手の揚げ足を取ったりあげつらうことしか出来ず、そこを責められると「素人だから」「知らないことを質問することの何が悪い」と開き直ったりする様子は、今と同じ。そこで、無知で有る事を隠す必要や卑下することは無いけれど、それならそれでやはりそれなりの姿勢とか態度は必要だよなぁと、当時シスオペみたいな事をやっていた自分も感じていましたが、そんなモヤモヤを一言で言い表したのが、この「無知を誇るな」の名言。
無知であることは、そこに新しい知識や経験をさらの状態から導入出来る一番良い状態でもあるわけで、そういう意味では先ずは人の話を貪欲に聞くべきだし、その中で何が自分にとって理解出来る話であり、どこがまだ分からないのか、と言う探究心を広げていくべき何ですよね。所が多くの場合は、少しすると分かることだけを「真実・正しいこと」と誤解し、理解出来ないことや難しいことは「嘘、不正、批判」みたいな理解をすることで、自分が努力放棄することの言い訳にしてしまう。色々な情報を見聞きして、その上での判断であれば、それはその人の主張であり理解であるからそれでいいと思うけれど、都合の良いところだけそれも簡単に手っ取り早く「正解を知りたい」という傾向がどんどん早まっている現代では、聞くものが最優先でそれに答えを与えられない方が悪いみたいな風潮する感じられてしまいます。
無知を恥じることは無いし、無知で有る事を引け目に感じることも無い。でも、無知で有る事は免罪符では無いし、何かの特権でも無い。無知で有る事を理由に、何でも許されるわけでは無いし、無知であるからといっても、それなりの立場の人がそれなりの場所で発言すれば、それはそれなりの責任も生まれてくるのは社会の仕組みとして当然のこと。それは自分が無知であるからと言う事は理由説明にはならないし、無知であるならばこそ先ずは自分として責任有る=自分の意見として周りが理解することも当然。それなのに、無知で有る事を理由として誇るような行為をすることは、やはり間違っていると思う。それを許してしまえば、嘘を言っても許されることになってしまいますからね。
そういう意味では、ネットが普通の事になり、誰でも簡単に
返信削除コメント短くてすまんが、記事に驚嘆した
公開が遅くなり失礼しました。ありがとうございました。
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