2018年1月6日

エディ・浜ちゃん

年末の特番で、顔を黒塗りしてエディ・マーフィーに扮したダウンタウンの浜ちゃんが、人権に対して無頓着だと批判されている件。個人的に感じるのは、良い事悪いこと問題無いだろう事を一緒くたにして、正しいか正しくないか二択で結論を出そうとしているから、話が変な方向にねじ曲がって混乱しているように思う。

例えば、この番組が英語の吹き替え、あるいは英語の字幕付でアメリカで放送されたとしたら、それは内容の良い悪い別にして「アウト」だと思う。それは、アメリカの黒人揶揄の歴史がある中で、誤解を生むようなシーンが登場するわけだから、理由の如何に関わらず駄目だと思う。一方で、今回の様に日本で放送する場合、その扮装した意味がその相手を揶揄したり卑下したりするので無ければ、私は「セーフ」だと思う。「その人に扮する」行為で、例えば特徴的な服装で終わる場合も有るかもしれないし、今回の様に肌の色まで似せたりヘアースタイルを似せたりと言う身体的特注まで模倣してなりきって演技したい、ということもあるでしょう。例えば、今回は番組がバラエティーだから「アフリカ系アメリカ人(*)蔑視」と言いたくなるのかもしれないけれど、もっと別の番組だったらどうだろう。その番組がどんな分野であろうと、その内容で批判する事をするべきで、単に「アメリカではこうだから日本でもそうするべきである」と杓子定規に当てはめることは、逆差別に繋がるような気がする。
(*)「黒人」と書くのも、多分最近では「差別的」と言われるような気がする。

仮に今回の件が「差別」という事になるなら、そう言っている人達は海外で日本人がカリカチュア(Caricature)されることも批判してくれるんだろうか。さらに言えば、よくメディアでは「美人○○」という言い方をしているけれど、あれだって「差別」ですよね。また、吉本興業のタレントさんだって、そういう部分を捻って笑いにして商売しているわけだけれど、あれもアウトになるだろうし。勿論、度を過ぎた過度な誇張だとか、悪意ある解釈とか、限度はあると思うし、そういう部分に関しては洋の東西の規準にかかわらず現実に即した判断をすることが重要では。で、「笑い」というのは、そういう「白と黒」の境界線のどこまでぎりぎりに攻め込めるかが胆になるわけで、そういう意味では笑いと差別は紙一重だと思う。そういう意味で、同じ番組で「禊ぎ」と称してベッキーがケツキックを受けていたりしたけれど、あれは限りなくアウトに近いと思う。そういう解釈の境界線は人によって違うし、その人の背景二依存するところが大きいわけで、そこにいきなり殆どの人が知らないような前世紀の海外の事例を理由に批判するというのもおかしい気がします。仮に言うのであれば、「これこれの理由で、個の番組はアメリカでは放送出来ない」くらいかな。

以前も書いたけれど、今回批判している人達はアニメの「アンパンマン」を批判しないのだろうか。日本のアニメは暴力的なシーンが多いというのはよく言われているけれど、アンパンマンが顔を食べられてしまうシーンって、海外から見ると「人食い(カニバリズム/Cannibalism)」を想像されるとして嫌われるんですよね。だから「非人道的アニメとして放送禁止」にしなきゃいけなくなる。勿論日本人でもそう言われれば「そうかな」と思う人も多いとは思うけれど、日本人の意識としては、あれはあくまでアニメの話であるし、しかも登場人物が「パン(を中心とした食べ物)の化身」という設定だから、食べる・食べられるというのは、人が走ったりすることと同程度の事象という意識なんでしょう。そうなったときに、新しい焼きたてのパンの顔と交換することで、新しいパワーが得られるというのは、ある意味逆境からチャンスを掴んで再起逆転すると言う意味にも取れる。そういう印象を日本人的な背景だと感じるから、あのアニメは成立しているとのだと思う。それを「アメリカの規準では」というは、実際にアメリカに輸出する時には考慮するべきだろうけど、日本国内で放送する分にはそこまで考慮する必要は無いんじゃ無いかと思いますね。

最近では、昔使われていた言葉でも「差別的」という事で使用禁止になる場合があります。それはそれで必要な場合も有るとは思うけれど、過剰に反応するのもどうかという気もします。それに、その言葉自体無くしたとしても、人の気持ちの中にそういう意識が残っていれば、別の新しい「言葉」が生まれてくるだけで何の解決にもならない。一番理想的な事は、そういう言葉が残っていても人の意識が変わって使われなくなり、自然と淘汰されていくことでは。言葉を換えるのでは無く、気持ちを変えることが一番必要なことだと思う。今回も同様に、見た目をとやかく言うのでは無く、先ずはその内容を批評するべきだと思う。昔のタレントさんで、手足が不自由な人のマネをして人気があった人が居たけれど、最近ではそういう芸は見られなくなってきました。それは、そういう差別的な行為を排除する社会的な状況にもなったと思うし、一番の理由はパラリンピックが注目されて、手足が不自由差を感じさせない意識が浸透してきたことも大きいと思います。勿論、全ての人がそんなに強いわけじゃ無いから、色々な意味で色々な方向からの支援や理解は必要だけれど、決して言葉を無くしたからそうなったわけでは無い。今回のエディ・浜ちゃんにしても、彼がどういう扮装をしたかということではなく、どういう意図でやったのか、そこを見るべきだと思う。

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