2025年12月21日

人生背景

 佐々木俊尚氏の引用から、現在では通用しなくなってきた「教養」なるもの。自分の子供の頃だと、古典だったり歴史的な逸話や名言などを元にした言い回しや引用みたいな言葉が普通に使われていたけれど、それはそういう事柄に詳しい年長者がいて、そういう人達からの知識の環流を受けていたからとも言えます。その後、核家族化とか家庭の形も変わり、親と子供とか親にしてもシングルマザー・ファーザーみたいな形になると、親からの背景伝承みたいな物が減って、自分の周りの環境、今ならアニメとか漫画とかネットからの情報が自分が獲得して行く背景情報となり、そこで使用される言い回しが「現在の教養」になっていくのはある意味仕方ないのかも。

以前も何度か書いていますが、仕事やプライベートでアメリカに行って、普通の会話の時に一寸困るのが、彼らとは歴史や生活背景が違うから、独特の言い回し(彼らにとってはそれが普通)に戸惑うことが多いんですよね。例えばキリスト教がほぼ全員の信仰対象だから、聖書からの引用とかそれに関係する言い回しなんて言うのも少なくないけれど、こちらは良く分からない。また、スポーツ関係では何度も書いているけれど、メジャースポーツに関わる言い回しも多いし、さらに言えば日本の「漫画アニメ用語」みたいな形で、スタートレックとかスターウオーズ等の話になぞられた言い回しも結構あります。更にアメリカの場合、軍関係の用語みたいなものも結構耳にする機会が多い気がします。

世代間の「教養」が、時の流れとともに古いものが消えていき新しいものが生まれて選択されていくのは、ある意味「新陳代謝」みたいなものだと思います。例えば100年前は丁度昭和が始まった頃だけれど、その昭和の始まりの頃の言い方と、50年後の昭和も終わりの頃の言い方は、同じ「昭和」でもかなり違うと思うし。逆に、地域間の「教養」の差みたいなものは、まずは言葉も標準語がどんどん広まっていくから減っていくだろうし、近代化されていくと地域の差も減っていくだろうから、こちらはどんどん平準化されていくんじゃ無いだろうか。例えば、電子マネーなんて、本の20年位前までは大都市圏くらいしか中々利用機会は無かったけれど、今ではほぼ全国のどこでも利用可能だし、さらに地方圏でも大型モール/ショッピングセンターにアウトレットモールみたいなものが次々と生まれていて、生活様式もそれによって差分は縮まっている気がします。

「教養」とは何かという本題に戻ると、一般的な「教養」の意味とは、

学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。

となっていて、単に知識が豊富であることだけが「教養」ではないと言っていると思います。豊富な知識や経験などの情報を、上手く活用出来る、あるいは相手に伝えることが出来る「アウトプット」の部分も含めての「教養」であって、それが最後の「心の豊かさ」なる物の本質じゃないだろうか。自分なりに感じる「教養」なるものは、「飽くなき探究心」じゃ無いかと思うんですよね。常に新しい事を知るという欲求、それを知ったことによる驚きと更なる探究心の誕生みたいな、「知識欲」とはちょっと違う「無限連鎖する興味」みたいなものじゃ無いか漠然と感じています。だから「教養」は身につける「資質」では無く、常に努力する事を止め無い継続し続けるという「意思 」なんじゃ無いかと個人的には思っています。だから、より広く教養を追求している人は、他の人との共通点も大きいし、常にその分野を広げているから、時代後れにも成らないんじゃ無いかと。そう言う意味では「何故?何?」を無限に繰り返す子供が、一番教養があるのかもしれない。

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