2025年8月23日

「語り継ぎ」よりは「記録継ぎ」

佐々木俊尚氏のVoicyから、自分の経験・記憶を語り継ぐ「語り部二世」は無意味ではと言う話。私も何度か同様の事を書いてきたつもりですが、その通りだと思うし、その後本人にしても何十年も経過するうちに語る内容も変化していくだろうから、本人の「語り」ですらそれは「事実」では無く「記憶の一つ」として判断・理解するべきだと思う。 

多くの「語り部」の内容は、戦時中戦後の悲惨な状況を語るものが殆ど。そう言う経験をされたことは悲しい体験であることは事実ですが、それならば現在進行形の形でまさにそう言う経験をしている人達は世界中にいるわけです。本来ならば、そういう人達の「生の声」にこそ、もっと耳を傾けるべきでは。日本が当事者では無いからとか、言葉が違うから伝わりづらいみたいな理由から、何十年も前の話よりも現在の話が疎まれていることは何か違う気がする。例えば、80年前の戦争の形と今の戦争の形では、違う部分もあるかもしれないけれど、「一人一人が被害を受けて厳しい体験をする」事に変わりは無いはず。ならば、今毎日体験している人達の「語り」こそ、まずは耳を傾けるべきものだと思う。

「違い」という意味では、今の日本の状況を考えると、「日本が戦争を始める」事よりも「日本が戦争に巻き込まれる」心配をもっとして、そのために必要な準備なり対応を考えないといけないんじゃないだろうか。最近まことしやかに言われている「中国の台湾侵攻」だったり、「北朝鮮と韓国」の対立だってどうなるか分からない。代替多くの場合は、日本の終戦とか戦後の話に集中しているけれど、「何故日本が戦争に突入したのか」という部分の話は殆ど聞きません。先日も引用したけれど、ある日突然誰かの命令で始まるわけでは無く、何となく色々な要素の掛け違いから、ズルズルと危険な領域へと日本全体が進み、結局気がついたときにはもう後戻りできない状態だった、みたいな事が強いて言えば原因だった様な気がします。そう考えると、今のウクライナ侵攻は、ロシアの一方的な武力介入から始まっているわけで、戦争の形も変わってきていることをもっと認識しないといけないのかも。

少なくとも今の時代はから昔の状況を振り返ろうとすると、当時の記録を集めるしか無くて、それは書類だったり書籍だったり手紙だったり、要するに「紙に記録されたものを集める」ということ。紙なので、紛失したり破れたり消失したりと失われるリスクも大きいけれど、それでも何百年前の記録が残っている位だから、優位な方法だと思います。ところが今の「情報」は、多くがデジタル化されていて、ある日突然全てのデータが消失するリスクは大きい。情報量としては、10年、20年前と比べても何倍何十倍もあるはずだけれど、その保全性は凄く脆弱だと思うし、増えた情報の信頼性も実はそのデータ量ほど増えていない事も事実。昔は紙も貴重だったから、そこに記録を残すことはとても重要な作業だったと思いますが、今は誰でも簡単にネットに記録することが出来る分けですから、その「重み」も違うだろうし。そう言う意味では、デジタルデータは何重にもバックアップや複製を作成しておくべきだし、それこそ今やるべき作業じゃ無いだろうか。

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