2025年8月16日

終戦記念日

昨日は戦後80年目の終戦記念日で、全国で戦没者慰霊の行事や、お盆の時期でもあるので祖先の霊を敬うお参りなどに出かけた人も多いのでは無いでしょうか。その前には、広島と長崎への原爆投下慰霊の会もあり、毎年のことではあるけれど8月は日本にとって色々な意味で厳粛な時期であることは確かかも。ただ個人的には「記念日」というと、何かお祝い事のような印象を受けるので、「終戦記念日」という言葉にちょっと抵抗があるんですが。

某テレビ局では「戦後80年を忘れない」みたいな特集をここの所放送していて、チラッとみたら「私達はどこで間違ってしまったのか」みたいないつもの主張を繰り返していてちょっとげんなり。いゃ、日本が太平洋戦争に荷担したことは確かなので、そこには戦争犠牲者に対しての反省や謝罪はあるべきだと思うけれど、それはその行為を実際に行った人なら分かるけれど、自分のように戦後20年位してから生まれてきたものからすると、正直ピンとこない部分も多くなっています。実際日本はその戦後80年間、経済戦争はしたけれど物理的戦争はしていないわけで、「平和」という意味では過去一番平和な時期が続いていた、とも言えるのでは。

ここ10年20年位の間に疑問として感じるのは、こう言う「戦争」というと、どうしても「終戦」「戦中」の話は出てくるのだけれど、じゃぁそもそもその戦争を始めた理由なり切掛は何なのか、それが分かればそれを回避する、実行しないことで日本が再び戦争に突入する危険はかなり無くなるはずです。でも、例えばドイツならばナチス/ヒットラーみたいな単純な図式(あれも、本来はそう単純というわけでは無いみたいだけれど) であれば、分かりやすいしそれをドイツは上手く利用している気がします。例えば太平洋戦争終戦を昨日は反省したけれど、じゃぁその前の日中戦争とか第一次世界大戦とか、それこそ日露戦争とか、其れ以前の日本が参加したり日本が当事者として戦った物に対しての反省なり繰り返さない研究みたいな物って無いのか、凄く疑問でした。そんな疑問に対して、一つの回答というか切掛担ったと思ったのが、ReHacQで公開されていた、辻田真佐憲氏の対談で、この話を聞くとそう言うもやもんした物だったり疑問だったりしたことが、凄く腑に落ちた気がします。

1時間半の長い対談なので要約するのも難しいけれど、何となく自分が感じていた、実は「犯人は誰々」と名指しできるようなことは無理で、実はそれこそ明治維新前、黒船来航くらいからの日本の指導者達の色々な思惑が複雑に絡み合って、実は強力なリーダーがいない集団体制みたいな決定機関が、肝心なときにブレーキを踏めず、さらに欧米列強の思惑もあり、日中戦争からの大東亜戦争(太平洋戦争)へと雪崩的に突入してしまい、その後更に混乱がすすんで不幸な歴史を招いてしまった、というのがかなり乱暴なまとめなのかな。辻田氏が何度も、今は極端な右と左がせめぎ合っているから、その間でいろいろな議論をするべきというのは理に適っているし、それが足りないから最近のような極端な情勢も生まれてくるんでしょうね。ネット化社会がいろいろな情報を生み出すとともに、はやり極端なハレーションに走ることも大きな理由だと思う。「戦後80年、記憶を忘れない」という言葉は、一見正しいように聞こえるけれど、「記憶」は必ず変質するし、場合によっては無から生まれる記憶もある事にも注意しないと。戦後80年となり、当時の体験者もどんどん鬼籍に入っていくからこそ「記憶」では無く後世の人達が色々な考察が出来るような「記録」を色々な形で今こそ残すべきだと思います。

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