先の「オフレコ破り」は、毎日新聞の行為だったんですね。 毎日新聞の反論記事には書かれていないけれど、女性記者(一部には実名も示されている)と言う事も書かれている。で、毎日新聞としては「性的少数者傷つける発言」で「重大な問題」なので、オフレコでの発言をあえて公開したと言っている。確かに、その立場上疑問を感じる発言内容ではあるけれど、今回の件を説明している毎日新聞の記事内容に関しても、実は歯切れの悪さを感じるんですよね。
まずは今回のオフレコ取材に関して、
録音や録画をせず、発言内容を実名で報じないオフレコ(オフ・ザ・レコード)を前提に行われ、毎日新聞を含む報道各社の記者約10人が参加した。(強調自分)
と書いている。いゃ、肝心の「オフレコ取材だから、その内容は漏らさない」という一番重要な点が何故か省かれているじゃないの。この説明をこのまま読むと「オフレコ取材の内容は、発言内容を実めいてなければ報じても問題無い」と取れるのですが、毎日新聞の解釈は違うのだろうか。また続けて「オフレコ取材は平日はほぼ定例化している」と、余り重要では無いような印象操作をしているようにも感じられます。毎日のようにやっているなら、オフレコではなくオンレコでやればいいじゃないの。あっ、そうか、彼らの言う「オフレコ(Off Recording)」は、文字通り録音や録画しないことであって、「内容に関しては守秘義務を含む」という意味合いでは解釈していないという事なのか(!)
で、オフレコ取材の中で荒井氏の発言を聞いた毎日新聞の記者は、
現場にいた毎日新聞政治部の記者は、一連の発言を首相官邸キャップを通じて東京本社政治部に報告した。
との事なんですが、何故この記者は発言者の荒井氏に対して、その発言の真意や自分の職務との不整合性に関して質問し取材しないんでしょうか。今の状況だと、単に岸田政権を弱体化させたいが為に、身内の不適切な発言を針小棒大に取り上げて批判したいだけ、に見えてしまう。昨日も書いたけれど、ある事に関して好き・嫌いや賛成・反対という考えを持つのは、それはその人の自由。一方で、与えられた職務をどの様に推敲するかは、それとは全く別の話だと思うんですよね。最近の例で言えば「旧統一教会」の話が似ているわけで、個人の宗教観・宗教選択の自由は人それぞれのはずなのに、一部の行為がその宗教の行為全てというか方で全否定されるのは、それは違う気がする。 時々裁判で、特定の思想を持った裁判官が、自分の思想に沿った判決を出して、それを同様の考え方の支持者は賞賛するけれど、じゃぁ同じ事を自分達は真逆の考えを持つ裁判官が実行しても、かれらは「それは仕方ない」と納得するんだろうか。以前比べて、マイノリティーだったり同性婚に対しての社会的な理解や認知は進んでいると思うけれど、まだまだ全ての人が理解して納得しているかと言えばそうでは無い。一人の人間がそういう考えを持っていた、と言う事を今回は問題視しているけれど、事の本質はそういう考えをどうしたら多くの人から支持されるような環境に移行することが出来るのか、問題点ならそこを深掘りしてこその新聞記者じゃ無いだろうか。世の中で、彼だけがそう思っているなら別だけれど、まだまだそういう考えの人も多いわけで、そう言う意味ではそういう人間も含めて共通理解を進めるためにはどうしたら良いのか、という大きな課題の回答を見つける糸口になるかもしれないのに。
で、最後には、
ただし、荒井氏を実名で報じることは、オフレコという取材対象と記者の約束を破ることになるため、毎日新聞は荒井氏に実名で報道する旨を事前に伝えたうえで、3日午後11時前に記事をニュースサイトに掲載した。
と再び自己の正当性を主張しているんだけれど、オフレコ報道って匿名・実名だけのは無しでは無いと思うと言う事は最初にも書いたとおり。さらに、 「約束を破ることになるから」と「事前に伝えた」と書いてあるけれど、本来オフレコかどうかは両者の了解の元に成立するものですよね。となれば、その時点で「相手からも了解を得ている」と書くべきなのでは。「伝えた」だけでは、まるで毎日新聞社が一方的に伝えて、相手の意見など無視して自分達の判断で公開したように感じるんですが。それって、「オフレコ破り」な訳で、自分達が自分達の不手際をわざわざ書いていると誤解されますよね(マテ)。結局は、自分達の目的のためなら何でもありなんだろうなぁ。あれだけ騒いでいた旧統一教会の話題なんて、最近では殆ど聞かなくなってきたので、今度はこの話で世間を盛り上げたい、という空気感しか感じられない。それが「メディアのお仕事」なんですね。
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