2021年7月23日

キャンセルカルチャー

東京五輪の開閉開式ディレクターを務める劇作家の小林賢太郎氏が、23年前の自分の舞台でナチスによるホロコーストを揶揄する表現をしたとして、その責任を追及されて開会式前日に辞任。ミュージシャンの小山田圭吾氏、絵本作家ののぶみ氏と問題が続出する中での新しい問題と見えるけれど、今回の件はそれらとは違う気がする。 

当時の舞台の映像や、色々な書込を見ていると、小林氏は決してホロコーストを揶揄しているわけでは無く、危ない(狂人)人物の発言として「ホロコーストみたいだろ」と言わせているわけで、そう言う意味では現在伝えられている日本の報道も変にバイアスが掛かっているし、それらを元に伝えている海外の報道はさらにバイアスが掛かっている気がする。ホロコースト絡みという事で、SWC (Simon Wiesenthal Center)側が反応しているけれど、その切っ掛けになったのが副大臣のチクリみたいなものというのも情けない。小林氏の舞台は、彼らは批判しているけれど、意図としてはSWCの目的に沿っているものだと思うのだけれど。

小山田氏やのぶみ氏の様に、最近まで問題行動をしていたのならまだしも、23年前の舞台であり且つ伝えられている様な主旨とは反対の意図で使われた場面を理由に、直前で辞任まで追い込むことはどうだろうか。ユダヤ問題、ホロコースト問題という、世界的に敏感な問題であることはあるけれど、それならば安倍前総理にちょび髭を付けた絵を太鼓に描いて、それを叩くことではしゃいでいた某政党の人達だって糾弾されなきゃいけない。と言うか、ああいう行為をすること自体ドイツ等では重大な犯罪になるはずで、そう言う意味では日本における意識が低いことは事実だと思うけれど、是々非々がちゃんと判別されずにズルズルと流されるままに処分だけ進んでいることは問題だと思う。

今回の件に限らず、何か過去のことで現在で問題視されると「無かったこと」にする事で解決するのだけれど、それって一番拙い対応じゃ無いだろうか。だって、実際には存在していた・発生していたことなのに、「無かった」と表面だけ取り繕う事って一番反省していない行為じゃ無いだろうか。勿論、当事者の中には忘れたい記憶、無かったことにしたいと思う人も居るだろうけど、事実は事実してそれを理解した上で、何が問題なのか、どうするべきだったか、今そしてこれからどうするべきか、という事を考えて実行する方が遥かに意味もあるし多くの人にとって利益になると思うのだけれど。「無かった事」にして、その事実が一時は消えても、いずれ同じような事が生まれてくることは確実。それよりも、有った事は「事実」として残し、「何が問題なのか」という事を共有することで、次に繋がる行動が生まれてくると思うのだけれど。キャンセルカルチャーって、乱雑な部屋の荷物を、兎に角押し入れやクローゼットに放り込んで見た目は綺麗にするだけで、結局はそのうちに荷物が溢れて外に飛び出してくる様に、いつかそれが問題になると思う。それに、そう言う事を言い出したら、じゃぁ「民主化することを前提」に開催された北京夏季オリンピックや、来年の冬季オリンピックはどうなるんだろうか。そっちの方が問題としては大きいと思うのだけれど、誰も騒がないんですよね。それが全てを表していると思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿