2020年8月17日

あの時の記憶と記録

ジャーナリストの佐々木俊尚氏による「戦後映画史シリーズ」。タイトルには「3回目」と記載されているけれど、多分「4回目」の間違いだと思う。その「3回目」は数日前に取り上げた、この話。シリーズ最後となるこの記事では、終戦によって立場が180度変わってしまった「戦中派(=戦争推進派)」に関しての話題で、前回の自分の記事でも書いた、「結果だけでは無く、そこに至る理由・原因も精査するべき」という話に繋がる記事では無いかと思う内容。

この記事の中で、個人的に重要だと思っているのは、5ページ目に書かれている「新時代への割り切れ無さ」という言葉に集約されているような気がします。戦地経験のあった祖父を始め、子供の頃に会った事のある戦地経験者の人達は、その戦地の話というのは殆ど話さず、それでも語った言葉は「浜松は空襲で丸焼けになった」「艦砲射撃の音が一晩続いた」と言ったような、浜松の戦争被害の話。中には、それすら口が重くて語らない人もいて、当時は「年寄りだから頑固なんだろう」くらいに子供心に思っていましたが、いまして思えば例え孫に話しをするにしても、内容や経験が重すぎて口を開きづらいと言う事だったんじゃ無いかと想像しています。祖父は、一度だけ「二等兵だった」と聞いた記憶があるんですが、少なくとも部隊指揮者のような「士官(少尉とか中尉とかのリーダー的役割)」ではなく、「下士官(士官の部下、軍曹とか一等兵二等兵等)」だったと思いますが、だからこそ実体験は厳しかったのかなと想像しています。確か、戦友会みたいな集まりがあって、それに出かけていたこともあったと思うんですが、ああいう場所だけが当時の記憶を癒す場だったのかもしれない。

戦後の価値観が180度変わってしまい、以前の正義が悪になり、以前は想像もしなかった「民主主義」なるものが突然社会の正義になってしまった戸惑いは大きかったでしょうね。言ってみれば、突然企業買収されて、それまでの方針や計画が全て却下されて、聞いたことも無いような価値観や人事異動で大きく組織変更されたようなもの。それが短期間に一気に全国的に適用されたわけですからね。そこで重要になるのが、同じページの後半に書かれている、
アジア太平洋戦争は国民の熱狂とメディアの扇動と、それに乗った軍の無謀な行動によって引き起こされたが、戦後のメディアと日本人はみずからの責任を意識から追いやり、すべてを「軍部の暴走」に帰結させた。
に集約されるのでは。勿論、それが全てでは無い事は明らかですが、これまで見聞きした戦前の様子等を見ると、メディア特に新聞メディアの立場は大きいと思います。 当時は、テレビ放送は始まっていたけれど、所謂「街頭テレビ」の時代で家庭にテレビは殆ど無かった頃。メディアとしては、ラジオと新聞が殆どの時代だったと思いますが、その中でも新聞の役割は大きかったと思います。その新聞では、現在の大手の朝日新聞(大阪朝日新聞、東京朝日新聞)、毎日新聞(大阪毎日新聞、東京日日新聞)、読売新聞の三社に関しては、色々な各自からの評価(批判とか非難では無く、あくまで冷静な評価)をして、メディアと国民意識の変化みたいな事を検証するべきだと思うなぁ。

現在は、それらのメディア以上に「ネットワーク(SNS)」が発達していて、多分情報量では既存のメディアを凌駕していると思うんですが、存在感という意味では歴史のある既存メディアに追いついているとは言い難い。ただし、加工済み情報配布をしている既存メディアに対して、未加工情報の配布すら可能なネットが、これまで何の抵抗も疑いもなく受け入れていた既存メディア発の情報を検証する機会を与えているわけで、その点は戦争時と大きく異なるところ。でも、例えば中国などは政府(=中国共産党)がメディア管理も実質しているわけで、その点は注意が必要。でも、「政府が言論圧迫している」と一定日本のメディアは、好き放題政府批判や一部勢力の代弁者みたいな存在になっているわけで、彼らが言うほどの圧迫や切迫感は無いと思う。でも、そう言う動きが、実はあの戦争突入に突き進む大きな切掛だったことは忘れてはいけないと思う。

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