2019年4月4日

元号フィーバー

新元号「令和」が発表されて、良くも悪くもその余波が収まらない今日この頃。「平成」の時との余りの違いに、40代以降のその頃を覚えているだろう年代のものとしては、意外というか驚きなんじゃ無いだろうか。前回の、昭和から平成にしても、その前の大正から昭和にしても、新元号が発表されたときは天皇陛下が崩御された事と同時の事象であったから、どうしても国全体で喪に服すべき時間であり、騒ぐなんて事はもってのほか。今回はご存命中に譲位であるし、しかも天皇陛下にしてもご病気であるとか、そう言う負のことも無い。純粋に新元号を祝う喜ぶ事が出来るわけで、まぁある意味国を挙げてのイベントと言っても良いわけで、不謹慎ながらも「祭り」状態と言って良いのでは。

なんせ、「令和」と印刷した物を作れば、ここしばらくは話題になるしビジネスにもなる。よほど不謹慎なことで無ければ、ある意味何でもありの状態。さらに、このネット時代ですから、直ぐにそれが拡散されて、良くも悪くも反応があり、それがまた次の活動へと広がっていくわけで、まぁ一寸古い言い方だけれど「ぱっ、ねぇ」(笑)。で、「良くも悪くも」と書いたけれど、そう言う状況だから「良くも」の方が中心で「悪くも」の方は肩身が狭いというか、一番悪いところが集まってしまって、益々悪くなっている感じ(マテ)。

その中でも「令和」の「令」の字は、命令の「令」で人を従わせるもので怪しからん、という理屈が中心になりつつあるというか言われています。確かにそうだけれど、すでにメディアでも「立派な、清らかな、喜ばしい」などの意味があると言われている。某大学の先生が、「辞書を見れば、命令するが最初に書いてある」と否定的なコメントをしていたけれど、それは今の時代の解釈・語用がそうであると言う意味であって、本来は万葉集に掲載されたときの意味を解釈するべきだし、それを説明することで本来の「令和」の意味が出てくるはず。大体言葉には、表の意味、裏の意味があるわけで、元々は良い意味の言葉でもその反語として悪い意味も含むようになり、場合によっては用法が逆転する場合もある。それをどの様に解釈するかは、その言葉全体を見ないといけないわけで、あえて個別に意図をこじつけるのは、単に否定するための理由探しをしているだけの気がする。

大体新年号だって、複数の色々な分野の人が集まって決定したわけで、別に独断で決めたわけじゃ無い。「令」の字が不適切という事は、それら有識者も含めて関係者全員を避難することになるわけで、そう言うことは分かっているんだろうか。勿論、肯定否定色々な意見があって良いわけで、反論するなら堂々とすれば良いけれど、どうも否定的な人の反論を聞いていても「なるほど」と多少なりとも同意できる意見が無いんですよね。今回自分なりに感じたのは、「年号」というのは、「日本」という名字に付けられた「名前」みたいなもんじゃないかと。その年号の時代を一つの塊として名付けられたものではないかと。自分の名前が気に入ったり気に入らなかったりするのと同様、色々な意見はあるけれど、結局はその名前よりも、その人がどういうことをしたのかという「中身」が最後は「名前」の裏付けになるわけで、今回の年号だって、明治、大正、昭和がそうであり、平成がそうなるように、その時代の内容で評価されるもの。そう言う意味で、今その名前がどうこうではなく、その名前の元にどう言う時代にするのか、それが一番重要だと思いますね。今は、そう言う話をするべき何だけれど、あの人達は...

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