2019年2月22日

多文化共生・他文化共生 (2)

数日前にローカル局の番組で、今後は静岡県にも色々な国から色々な理由で滞在・定住する人も増えるだろうし「多文化共生」という事を県民一人一人が理解する必要がある、見たいな事を放送していました。ただ、個人的には、それはそれで重要何だけれど、肝心なことを忘れているんじゃ無いかとふと思うんですよね。

「多文化共生」ということを話すとき、殆どの場合言われるのは、これまでそう言う経験のなかった日本人は、他国の人の文化や習慣を理解して、温かく受け入れましょう、みたいなこと。勿論、全ての人が日本人と同じように生活しているわけでは無く、様々な理由から日本人はやらないことをやっていたり、異なる考え方が普通であったりすることは良くある話。それを、単に日本の習慣ルールと違うからと拒絶するのでは無く、そう言う考え方・スタイルもあるという広い理解を日本人はこれからしていく必要が有るということに、異議はないです。ただ、それと同じように、日本に来る人も日本の文化なり習慣を尊重して貰いたい。特に、元々日本にいる人間も我慢するところがあれば、やはり来る側の人も我慢する部分はあるけれど、その比率というか度合いに関して言えば、やはり日本側の方が優先するだろうし、比重も高いだろうし、それは元々いた人と来た人の違いで仕方ないでしょう。

そう言う意味で「多文化共生」と言いつつも、実は「来る人に、どの様にして日本の習慣を理解して貰うのか」という話が足りないのでは無いかといつも感じます。場所によっては、日本語教室とか多言語での案内とか、色々工夫しているところもあるだろうけど、来る側の人にもそれなりの覚悟というか認識はもっと持って貰う必要は有るんじゃ無いだろうか。こちらも努力するけれど、来る人にはやはりその何倍もの努力をして貰わないと、結局は摩擦だけがどんどん大きくなって、相互に不信感だけが拡大することになりそう。

なんか、そんなことを以前も書いたような記憶が浮かんできた調べてみたら、丁度二年程前に同じような事をやはり地元の新聞から見つけて書き込んでいました。まさに、「多文化共生」は「他文化共生」でもあり、相互理解が無いと前には進めない環境なんですよね。昔アメリカに長期出張していたとき、4F建てのレンタルアパートに済んでいましたが、ここには色々な国の人がやはり済んでいて、まさに一つの世界地図をリアルタイムで見ているような状態でした。中には、顰蹙を買うような行為もあったりして、いろいろな摩擦が生まれ、生まれたら生まれたで、それを何か減らすことは出来ないか、杓子定規にルールを当てはめるのでは無く、棲み分けと譲り合いみたいものが、生まれては消えていったものでした。勿論、人には我慢の限界もあるわけで、いつまでもそう言う状態が続くことは良いことでは無いけれど、そう言う場合に備えて「多文化共生と他文化共生」を理解していくことが色々な意味で重要だなと再認識したような気分です。

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