新聞記事で「脱原発テント村」なんて言う言葉を久しぶりに見てちょっとビックリ。あれって、まだやってたんだというのが第一印象。福島第一原発の事故を切っ掛けに始まった物だから、もう5年もあそこで活動しているんですね。なんか、昔の成田闘争を思い起こさせるような話し。いつもこういう行動を聞いて不思議に感じるのが、決して少なくないだろう資金が必要だと思うんですが、そう言うお金はどこから出ているんだろうか。今回の最高裁の判決でも、3800万円余りの土地使用料金に制裁金を合わせたものが請求されていますが、それだけのお金があるなら、もっと効果的な活動をすれば良いのにと思ってしまう。例えば、今回の最高裁判決の前の高裁判決って1年前にでているようですが、その間にこの話題が取り上げられたことって、どれだけあるんだろうか。彼らにとっては何かのシンボルとしての存在になっているんでしょうけれど、ずっとそこにいるだけじゃ周りの人は不感症になるだけでは。それなら、毎週一回デモをしたりとか、定期的に集会なりを色々な場所で開く方が、遥かに効果的な気がします。
確かに拠点として確保して、そこを占有することで活動を継続していくことも一つの方法だろうけれど、だからといって違法なことが許されるとは限らない。今回も表現の自由を理由に判決に反対しているけれど、5年も違法に一つの場所を使用し続けることが何故そこに繋がるのか分からない。いつも思うんですが、彼らは同様の事を自分達に対して行われたらどう感じるのか、反芻したことが無いんだろうか。まぁ、それが出来ないから、ずっと同じような事を続けているんだろうなぁ。言ってみれば、彼らのビジネスモデル何だろうけど、一度そのカラクリをどこかのメディアなりジャーナリスト氏なりが解明してくれないだろうか。
記事の最後のコメントに「戦う」という言葉が出てくるんだけれど、何でこういう人達ってこうも好戦的なんだろうか。「主張する」とか「活動する」で良いと思うのに、「戦う」とか「革命」とか、もうクーデターでも起こしそうなことを毎回言います。「名は体を表わす」では無けれど「言葉は心を洗わす」という事は事実だと思う。過激なことを言う人は、やはり過激な考え方を持っているし、言葉の汚い人はやはり心も汚い人だと思う。先日の都知事選の世代毎の投票先調査にも現れていたけれど、年齢が上がって色々な柵がある世代は投票先が分散するけれど、そう言うことに関係無い感性で投票先を選ぶ若い世代は比較的保守的な投票になったことも、そう言うことを分かっているからじゃ無いだろうか。
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