卒業祝い給食にお赤飯を準備していたら、その日が日が日本大震災記念日の3月11日で、被災した日にお祝いのお赤飯など怪しからんと言うクレームが来て、2100食分のお赤飯を廃棄した件。私が素朴に最初に疑問に感じたのは、福島でお赤飯って「お祝いの時」だけに出しているのかなと言うこと。少なくとも自分の家では、お祝い事の時にもお赤飯を炊いていたけれど、例えば法事とかの時にもお赤飯を炊いていた記憶があるけどなぁ。実は私、この「お赤飯」が苦手で手をつけないので、子供の頃からお赤飯を炊くときには、家族分とは別に私の分だけ普通の白米を炊飯していた位。
「冠婚葬祭」の時に出される「お赤飯」って、個人的想像ですが、大量に造って保存が有る程度聞くことと、小豆を入れてかさ増しできるので大人数に振る舞うときにもコストを抑えることが出来たのでは無いだろうか。また、白米のご飯を準備してしまうと、それに合わせておかずやなんやらも準備しないといけないけれど、お赤飯だとそれにごま塩を振り掛けて、あとはお茶とお漬物とかあれば成立してしまう「セット」だったように思います。その地方地方で色々風習もしきたりも異なるから一概には言えないけれど、卒業祝いと地震の鎮魂を予てお赤飯を出すというのは、私は別におかしいとは感じない。まぁ、その地元のでは、お赤飯は「お祝い事の時」だけ出すものなら仕方ないけれど。
でも、そうであっても、そのお赤飯が出されるのは「卒業式」という人生で一度切りの大切な時なわけで、幾ら日時が重なったからと言っても優先するべきはその当事者子供達の卒業のお祝いでしょう。それとも釜石市の子供達は、一生「被災地」という荷物を背負わないといけないとでも言うのだろうか。そのクレームを入れた人は、どうも一人だけでしかも市議会議員(?)という書込もネットでは表れているけれど、それだと余りに気を遣いすぎというか、対応した側も「事なかれ主義」過ぎるような気がします。このお赤飯は、一月位前から給食の献立として知らされていたのに、なんで直前にクレームするのかという疑問もあるし。例えば、何処かの学校で同様の事例が有り、その学校の校長判断でその学校だけでは止めたとか言うならまだ理解出来ないことも無いけれど、市内全部で2100食ものお赤飯を「廃棄する」事の重要性も考えるべきなのでは。
詳細は分からないけれど、もし似たような事例が続くようだと、例えば3月11日に生まれた子供は祝わえないみたいな事になってしまう可能性も。結婚式も出来ない、新築祝いも出来ない、開店祝いなんてもってのほか、みたいな社会になってしまう。東日本大震災の記憶や知見は、これからも何年何十年と継承していくべき事柄だと思うけれど、そういう作業と日々の生活の中での喜怒哀楽や冠婚葬祭は分けて考えるべきだと思う。また、仮に震災と現実を何らかの理由で天秤にかけて選択する必要が有るとしたら、それは今を生きている「現実」が優先されるべきじゃ無いだろうか。それよって震災の記憶や気持ちがが変わることは無いと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿