東大新聞オンラインに掲載されていた、「東大教員は学術会議の法人化をどう見ているか」というテーマに対して、学部毎の所属教員のコメント。某ドラマの名台詞では無いけれど「実に面白い」の一言。
学術会議の多数を占める、法学政治学人文系の学部が、学術会議擁護の論調が多いのに対して、理系の学部は反対意見が強く感じるし、それ以外の分野でも学術会議の様な会議体の存在は肯定しても、今の学術会議には問題があるという意見が多いように感じます。自分も似たような話を何度かここに書き込んでいるけれど、「学術会議」と名乗りながらも、学術として網羅しているのは政治とか社会とか、文系の中でも一寸特異な分野が中心で、科学的な提言とか意見みたいなものは殆ど出てこない。よく言われる、ALPS処理水に関しては、是非以前にコメントすら殆ど無いわけで、学術会議と名乗る意味は何なのという批判も当然のような気がします。今回は東大教員の意見だけれど、例えば京大教員だとまた傾向が変わるんでしょうね。単なる憶測だけれど、より擁護論が強くなりそうな気がする。東京科学大学(旧東工大)だとどうだろうか。批判一色になるのかな(笑)。
今回の騒動は、これまでの政府の一諮問機関から、国から独立した法人に変わる等個人的にはこれまでよりも中立的な立場で独立性が担保され、彼らが菅内閣の時に問題視したような「任命拒否」みたいなことも無くなるんですよね? それなのに、とうの学術会議だけで無く、その他の組織や集団からも反対意見が出てきて、座り込みなんて言う抗議活動まで起こしている。「学術会議」なんだから、学問的に理路整然と自分達の正義なり正論をぶつければ良いと思うのに、なんでそういう物理的行動で反対しようとするんだろうか。それこそ、自分達が日頃批判して反対している行為じゃ無いのかといつも疑問に感じます。結局、自分達の都合の良いことしか考えていないということなんでしょうね。
最近では使われない言葉の一つだと思うけれど、昔は大学教授などは「象牙の塔」という言われ方をしていて、要するに俗世間とは隔離された浮世離れした存在みたいな人達と思われていました。学術会議って、まさにその「象牙の塔」の中にいることを良しとして、且つその象牙の塔を死守することが至上命題みたいな印象なんですよね。「学者」だから、ある程度俗世間とは離れた存在・離れた視点を持つべきだと思う反面、それらを研究対象、研究資料としてビジネス利用しているのが彼らなんじゃ無いだろうか。だから、自分達が主張している意見とは真逆な実生活をしている有名教授なんかも出てくるわけだし。俗世間にどっぷり浸かっているのもどうかと思うので、せめて「ガラスの塔」くらいにして、隔離されてはいるけれど外からでも中からでも、互いに相手のやっている事は見えるくらいの接点は必要だと思うけどなぁ。
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