2025年5月12日

料理観

佐々木俊尚氏の引用から、料理かの土井善晴氏の料理観についての一連のやり取り。個人的にも、この土井氏のファンで、それは一見投げやりな感じがするけれどちゃんとツボを押さえた調理方法だけで無く、その独特の口調所謂「善晴節」もファンなんですよね。 

土井氏だけで無く、例えば京都菊乃井の村田吉弘氏なんかも「ご家庭なら、こんな感じでよろしいでっしゃろ(失礼!)」みたいな感じで、決して料亭なんかの手順に拘ることを言わないのが好感が持てますね。お金を頂く料亭だから、素材にもその切り方見せ方にも、味にもプライドと責任を持つけれど、日々の食事の家庭料理は、多少見栄えが悪くても、多少味のブレがあっても、毎日美味しく頂くことが一番重要みたいな「料理観」は納得すると個人的に賛成するところ。私は、何人かの料理人の方のチャンネルや動画をよく見ますが、皆さんそういう部分には共通点があるように感じますね。決して「手を抜く」のではなく、華美なところを簡便にする、100%の完成度をコスト度外視で追求するのではなく、取りあえず合格点を目指すみたいな感じかなぁ。

引用先で言及されている「湯がいた青菜に醤油を掛けたら料理」は、まさに「お浸し」という立派な料理。アシスタント氏の「深いですね」という一言に「いゃ、深くないですよ」という返しは、土井氏特有の「難しい事考えたらあかん」という事なんだろうけど、私は結構深い話だと感じます。例えば「醤油を掛けたら」の醤油にしても、簡単に「醤油」というけれど、白醤油、薄口醤油、濃口醤油、たまり醤油、刺身醤油、と醤油の種類だけでもいろいろ。最初の三つは、料理でよく使われる代表的なものだと思うけれど、白、薄口、濃口の順に塩分は濃いめから薄めになるし、逆に旨味成分は白から濃口に向かって豊かになるし、だから使う醤油の量が全く違ってきます。白醤油が見た目の色味を気にするために、より少量で塩味がはいるように塩分が濃いことは合理的だと思うし、多分塩分が濃いだけ発酵の進み具合が遅く、色が付かないことと旨味成分も少ないのも理解出来る。レシピなんか見ても「醤油大さじ1」とか書いてあっても、私は先ず「これは濃口だろうか、薄口だろうか」悩むんですが、多分一般的に「醤油」と書いてあったら、濃口醤油だと思えば間違いない気がする。

調味料の醤油以前にも、和食の場合は「切り方」にも拘りというか理由が有る場合が殆どで、野菜なんかの場合には繊維の方向を見て、歯ごたえがあるように繊維に沿って切るとか、逆に柔らかくするように繊維を断ちきるように切るとかよく言う話。更に個人的には「乱切り」なんて言うのは余り西洋料理では聞かない気がして、あれは一見無秩序な中にも何らかの規則があるような印象を点けるような気がしています。勿論、断面が不規則になる事で足が染みこみやすいという調理上の理由もあるんでしょうけど。西洋料理の場合は、最後に飾り付ける「飾り切り」の要素が殆どじゃ無いだろうか。プロの料理人、レストラン経営などするのであれば、やはりちゃんと調理や料理の基本を身につけて正しく作業するべきでは、それは味とか以前に「衛生面」でも要求される事だから。一方で、自己責任で自己満足な家庭料理の世界ならば、そういうルールに縛られなくても、自分で出来ることを先ずやり、そこから拘りみたいなものが生まれてくれば、それを追求すれば自分なりに満足出来るものが調理できるように成るんじゃ無いだろうか。最近流行の「簡単○○」とか「ワンパン料理」なんて言うのも、その延長だと思う。少なくとも自分食べるもの、自分の家族が食べるくらいのものなら、何を造るのでは無く毎日続けられる「努力」を考える方が優先するんじゃ無いだろうか。

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