2024年12月20日

体を育む

佐々木俊尚氏が紹介している、教員向け専門誌に掲載された「体育教育否定」のヒャダイン氏のコラム。最近はスポーツ理論もいろいろと進展しているので、例えば「健康目的」の体育教育とかもあり得るんだろうけど、昔の体育は「色々な競技・種目を試してみる」 みたいな内容だったから、そりゃぁ得意不得意以前に「からだが動かない、動かせない」という子供も居たでしょうね。

私は、子供の頃から自宅回りの畑や田圃を走り回って成長した「準野生児(純農村児?)」だったから、走ることは速くてそれもあって小学校から高校まで陸上競技の短距離をやってましたが、その割には跳躍系が苦手なのと投擲系が駄目で、あの頃「スポーツテスト」だったかな、何種目かの記録を取るイベントがあったんですが、何故が「ボール投げ」が全然駄目でした。ある程度スポーツが好きでそれなりにからだが動く人でも得手不得手があるんですが、そうで無い場合にはまぁ「体育」は「拷問」と同義語に感じるのも納得。

「体育」とは「体を育む」と書いているのだから、今で言えば体幹を鍛えるとか、可動域を広げるとか、体脂肪率を下げるとか、そう言う健康目的な事を中心に行われるべきなんでしょうね、本来は。ストレッチとか、ウォーキングとか、今ならそれなりに適応できる手法も理解されているけれど、当時はまだどちらも世の中に認知されていない時代。最大の原因は、日本の昔ながらの「道」という考え方が、「体育」の中に含まれていたことじゃないかと個人的には思います。つまり「修行」みたいな概念が、あったような気がする。中には、そういう子供の頃の運動経験から、将来有名なスポーツ選手になる人も居るんだろうけど、その他大勢の普通の子供にとっては迷惑でしか無いかも。あくまで想像ですが、「体育」の授業は昔の「体錬」「鍛錬」みたいな考え方の延長にある(あった?)事が、最大の問題点なのかも。

「体育」に対してのヒャダイン氏の批判も理解出来るけれど、日本の場合「スポーツ」に対する考え方を変える、もっと柔軟に解釈する必要が有るように感じます。例えば、アメリカなんかだとシーズン制が確立しているから、年間を通して色々なスポーツ(競技)に参加出来る機会が増えて、そこから優れた才能が発掘されることもあるし逆に広く浅くスポーツを楽しむ事も出来る。日本の場合は、一応その競技の「シーズン」はあるんだけれど、オフシーズンに於いてもその競技のための練習(筋トレとか走り込みとか)が続くから、結局一年中一つの種目にしか参加出来ない。最近は変わってきているのだろうけど、昔は「夏季競技」と「冬季競技」の大きな括りしか無かったけれど、今は例えば四半期毎に色々な競技に参加出来る機会を増やした方がいいと思う。まぁ、さらに言えば別に体育だけで無く、それ以外の科目だったり習いごとだったりも、まずは広く浅く経験する機会を設けるべきかもなぁ。

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