取り上げられている話題に対しての興味深さも当然ですが、それに対して次々とネットでの集合知が蓄積されていく醍醐味みたいなものを感じる、Xでのスレッド。
これは1978年に角田忠信氏が提起した日本人の脳の働きに関係した話かもしれない。
— 佐々木徹 (@tsukuba_tsasaki) November 28, 2024
日本人は虫の音や和楽器の音色等を言語と同じ左脳で聞くためにそこに情緒を感じる。一方多くの外国人は右脳で機械音として聞くので雑音と感じると実験から明らかにした。その違いは母音主体の日本語で育ったかどうか。 https://t.co/EVDnsZIDbY pic.twitter.com/zceJRXBSi7
元々の話題である、何故日本人にメタルやギター主体の音楽が受け入れられてアメリカではそうでは無いのかという事について、日本では三味線に代表されるような「揺らぎ音」が子供の頃から馴染みがあり、それがメタルやギター演奏に対して親近感を感じるというもの。日本でも活躍しているマーティ・フリードマン氏が言っているから、説得力を感じますね。最近では、津軽三味線の奏者の人が、ロックとかメタル系の演奏をして話題になった事があるけれど、三味線だってお座敷で演奏されるような静かなものから、津軽三味線みたいなハードなものまで千差万別だけれど、日本人だと「三味線の音」として違和感無く受け入れているわけで、確かに西洋音楽の例えばマンドリンとかバイオリンとかとは、それらでも「激しい演奏」はあるけれど一寸違う印象はありますよね。彼らの「激しい」は、テンポを上げたり大きな音を出したり、高速で演奏したりみたいな感じだけれど、三味線など日本風の演奏の「激しい」は、「音の揺らぎ」にある気がします。日本人にはお馴染みの「歌謡」である「演歌」も、一番の特徴は所々に入る「こぶし」なわけで、微妙に音程を揺らすことで、感情の微妙な表現とか、背景イメージに対してちょっとした深みを与えている気がします。そう言えば、やはり日本独特の楽器である尺八も、楽器の中では唯一倍音の演奏が可能な楽器と聞いた記憶がありますが、その場合は重ねた音の微妙なずれ具合みたいなものが、三味線の揺らぎみたいな印象を与えるんじゃ無いだろうか。
佐々木徹氏が紹介している、角田忠信氏の「日本人の脳」という書籍はちょっと興味深いですね。ハードカバーしか無いみたいで、Kindle版があれば速攻で購入するんだけれど。その中で説明されているという、日本人は虫の音や和楽器の音を言語と同じ左脳で処理するので「情緒」なるものを感じるけれど、多くの外国人は右脳で処理するため機械音のような「雑音」と感じるという話。これ、別の事例では「風鈴」の感じ方で同様の話を聞いたことがあります。日本人に取って風鈴の音色は、涼味を感じる涼しげな音だけれど、外国人が風鈴の音を聞いても雑音にしか感じないので、何故日本人は暑い夏に風鈴を吊して、それで「涼しさを感じる」のか分からないという内容。「風鈴」自体は、日本の原風景の一つして海外の人にも今では有名だけれど、それは見た目の涼しさ美しさが彼らから見たら魅力なんだと思う。だから、場所は忘れたけれど、最近では風鈴を何十何百と並べて展示するような場所があちこちに生まれて、それがまた人気になって居るみたいですが、あれは本来の風鈴を楽しむ目的からしたら邪道なわけで、一つ二つの風鈴の音だから涼しさを感じるのに、あれだけまとめてかつ風を吹きかけて一斉に風鈴を鳴らすような行為は、日本人にとっても風鈴の音を雑音と感じる状態にしているだけではないだろうか。また、風鈴を成らそうとして下がっている栞部分を持って打ち付けて鳴らしたり、強い風を吹きかけて大きな音を出そうとするのも間違い。栞部分に軽く団扇で風を送るくらいにして、軽やかになるくらいが本来風鈴の音で「涼しさ」を感じる風情だと思う。自分の子供の頃は、軒先に風鈴がぶら下がっていて、「チリン、チリン」と鳴っていた原体験があるからまだそういうイメージも沸いてくるけれど、今の人達は「風鈴」という光景しか知らないから、外国人の感覚に近いのかもしれない。
個人的にちょっと興味が有るのは、そういう日本人が無意識に行っている左脳処理の状態と、これまた日本独特の「八百万の神」という考え方との関係。例えば自然崇拝みたいな感じで「神の声を聞く」みたいな感じで自然の音とか虫の鳴き声を「音」ではなく「声」と認識するようになり、そこから左脳処理という資質が生まれた「八百万の神からの左脳処理」資質というのが一つ目の想像。逆に、自然環境とか元々の環境から生き残るためにより敏感に反応するようになり、その為には雑音としてスルーするのでは無く何らかの意味をくみ取るために左脳処理の資質が発達して、それに意味づけするために「八百万の神」のような、ある意味一つ一つの音に識別子を点けるみたいな感じで信仰のようなものに発達した「左脳処理からの八百万の神」という考え方。個人の勝手な想像ですが、案外何か関係があるような気がしているんですよね。その左脳処理に関しては、日本語が「母音主体」で、そこに続く子音を聞き取るために周波数の微妙な変化に敏感に反応することから生まれたようですが、そうなるとなんで母音主体の日本語が生まれてきたのか、そこにも興味が沸きます。「言葉」というのは、ある意味「ブログラミング」みたいな印象も受けるわけで、そうなるとソフトウェアエンジニアの端くれではある自分が興味を持つのは当然かもしれない(笑)。
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