これはそうかもなあ。「コンテンツにかける時間がどんどん短くなり、前後の文脈をすっ飛ばしても意味を理解できる表現が好まれるようになった」/「現代に表現の豊かさは必要ない?」時代にうつろう歌詞のあり方 https://t.co/M6ZKjQD4tG
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) October 13, 2024
佐々木俊尚氏が紹介していた、現代の「表現の豊かさ」についての記事。 まぁ「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉が一般的に使われる時代ですから、出来るだけ要点だけ出来るだけ簡単にできるだけ短く情報伝達したいというのは良く分かる。以前何かの本だったかで読んだ話しで、文明が進むとどんどん言葉が短くなってコミュニケーションの効率化が進むみたいな事があり、例えば「○○君、昨日は何したの?」みたいな言葉も「どう?」みたいな感じで短縮されて会話が進むみたいな話らしい。これは結構良く分かる話。
私も、普通に会話するときにはそう言う傾向があるとは思うのだけれど、例えば同年代の人と話をしたり、馴染みの無い人と話をしたりする場合には、相手の背景や前提が分からないので、どうしても「ここは勘違いしないように」と事前情報を追加するような言い方になり、説明がどんどん長くなることは昔の人の悪い癖かも。個人的には、インスタントメッセージが、そう言う「短縮化」傾向にさらに拍車を掛けていると思うし、特に日本の場合は「絵文字」とか「スタンプ」のような、一つの事象で良い片言を表したり、こちらの気持ちを表現することに抵抗がない気がする。あと、かなり古い言い方だけれど「よろしくね」を「4649」とか短縮するだけでなく、さらに簡略化して相手の想像力すら情報伝達の前提にするようなスタイルは、あまりないのでは。英語でも、例えば「You」を「U」とか「Thank you」を「THX」と省略する使い方はあるけれど、あれは発音が同じ・似ているとか、文字の簡略方法の話なので、日本の擬えとか当てはめとはちょっと違う気がします。
記事では、歌詞の表し方について話が進みますが、個人的に思いだしたのは、これも古い歌で恐縮だけれど、五木ひろし氏の「よこはま・たそがれ」。演歌ではないけれど、ポップス演歌というか歌謡演歌と言うか、純粋な演歌的要素を持ちつつ、現在の表現とかリズムの歌という説明であっていると思うんですが、もう言葉や綾や間を駆使した歌詞を使う演歌に対して、この曲は単語を羅列しただけででも一つのストーリーが作られていると、結構当時は賛否が有った歌だと記憶しています。最初の「よこはま たそがれ ホテルの小部屋」も、もし演歌風あるいは小説風に本来の歌謡曲風に書き換えるとしたら、「少し柔らかな西日に照らされる、港近くの小さな安宿」とか言うのか(文才の無いのは仕方ない-笑)。かなり極端な言い方というこじつけかもしれないけれど、これまでの文章は始まりから終わりの句読点までで一つの情報を表していたけれど、今の時代は一つ一つのデータを並べて相手に伝えるべき情報を相手側で再構成させる、みたいなスタイルに感じます。言ってみれば、これも「アナログ」vs「デジタル」みたいな話じゃないかなぁ。
どちらが良いか悪いかはなかなか難しい話だけれど、前者の場合は必要な情報の説明はしているけれど、付帯情報も多いから相手の背景によってはノイズが挿入されて別の解釈にされる可能性も高い気がします。それに対して後者は、共通認識できる短い言葉を伝える事で、そういう誤解は少ないだろう、と。でも、その情報を再構成するためには、共通に認識基盤が必要で、それが無いと相手からしたらちんぷんかんぷんな情報になってしまう。所謂「若者言葉」なんて言うのも、世代ごとの共通認識があるから成立する訳で、それが無いと「なんじゃそれ」で終わってしまう。何か、共通キーが無いと複合出来ない、暗号化の話にも聞こえるから、こういう情報論というかコミュニケーション論は興味深いと思います。音楽関係では、昔は良く流れたイントロが最近ではなくなっていきなり歌詞から始まるというのも、やはり「タイパ」の影響だと思う。イントロはイントロで、歌詞はないけれどその曲を較正する伏線みたいなもので、それを最後にサビの部分で回収するような曲だと「あぁ、良い曲だ」と思うんじゃないかな。「表現の豊かさ」というのは個人が感じる多様性を生む考え方だと思うけれど、「表現の確かさ」みたいな確実性を最近は重視するように成るんじゃ無いだろうか。「豊かさ」は、その種類や回数が増えることで補われている気がします。若者言葉がどんどん変化するのは、その一例じゃ無いかなと言う気がします。
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