SF作家、小松左京氏の代表作「日本沈没」から50年。その舞台裏を書いた記事。小学生の頃からSF好きで、国内外の作家問わずに貪るように読んでいた頃。小松左京氏だけで無く、星新一、眉村卓、光瀬龍、筒井康隆、半村良、平井和正、豊田有恒などの作品を貪るように読んでいたなぁ。
「日本沈没」は、その壮大なスケール感もそうですが、後から読み返してみるとそれこそその当時のイスラエル/パレスチナだったり、東西ドイツだったり、所謂「分断国家」が複数存在していた時代で、そんな中で日本は島国ということもあり何か理由の無い安定感を感じていた時代。しかも、時代的には高度経済成長の時だったと思うんですが、そこに日本が無くなる沈没するという180度真逆の設定が受けたのかも。当時から地震の多さはあったわけですし、大規模な地震の影響というものは、それなりの説得力があったように思います。
小説も凄く印象的だけれど、個人的には映画での印象も強く感じるんですよね。小説、特にSF小説の映画化って、特に国内の作品ではなかなか成功した例を知らないのだけれど、この「日本沈没」の映画は凄く印象に残っています。特に映画の最後、日本から雪のシベリア平原をシベリア鉄道で移動して行く避難民の様子を、当時はドローンなんてまだないからヘリコプターから空撮していたはずですが、車窓のアップからどんどん引いていって、最後は真っ白なシベリア雪原を寂しそうに走るシベリア鉄道の映像が凄く印象的。経済成長時で世界を席巻しつつ有る中、やはり何か不安も感じていた日本人の心情に見事にマッチしたんじゃ無いだろうか。あのシーンを見ていると、小松左京氏がその後の第二部を描きたかったのではという説明は凄く腑に落ちる気がします。
日本は物理的には沈没はまだしていないけれど、経済的には「デフレ」で沈没しかけたことは事実。今の時代だと、国民は世界中に散らばるけれど、仮想世界の中に「シン日本国」みたいなものを作る、みたいなストーリーになるのかな。当時の作品の続きだと、ユダヤ人のように世界中に浸透するけれど、ユダヤ人ほどしぶとさは無いためにそれぞれの社会構造の底辺に甘んじる存在、みたいな話になるのだろうか。そこに、「英雄」が登場して散らばった国民をまとめ上げて、太平洋無人島を繋ぐような海上都市を構築して、とSFならば何でもありかも。日本沈没に至るような大災害のリクスは限り無く小さいと思うけれど、東南海地震のリスクは益々高くなるように感じます。東日本大震災の何倍もの被害を生じるような自然災害は、確実に起こることを前提に、もう一度あの小説を読み返してみると、新しい視点が生まれるかも。今年は関東大震災から100年目と言う事で、例年よりも当時事を大きく取り上げるメディアが多かった気がするけれど、100年前の教訓も大切だけれど、12年前の東日本大震災とか、その前の阪神淡路大震災、さらには規模はそれらよりも小規模だけけれど甚大な被害を起こした水害等の経験値のフィードバックを、これを機会に改めて実施することが大切だなと感じますね。
0 件のコメント:
コメントを投稿