2023年8月24日

科学は隠れ蓑か?

「経済」を中心に報道する新聞社だからだろうからか「科学を隠れ蓑にするな」という見出しは、正直「メディア」としてかなりトンチンカンだとは思わないのだろうか。 

続く「処理水の風評退治は政治の仕事」と書いているけれど、それはつまり政治による報道への介入を希望していることになるのだけれど、それは認めるのだろうか。つまり、「風評加害者」である報道機関を正さないと、いつまでたっても「風評被害」は続くわけだから、その大元を退治するのが「政治の仕事」だと自ら認めている事になる。

科学的な効果を謳う、例えば健康食品のCMだったり、最近の例で言えば新型コロナウイルス空間除菌効果を謳った某製品のように、いかにも科学的効果が有るようなことを何かの数値を元に宣伝しているけれど、実際にはそれら数値は特殊な環境下での値だったり、現実的に「効果」とは言えない程度の改善であったりするような事を指すのであれば「科学を隠れみのにするな」というセリフも意味があると思うし、適切な表現とも言えると思う。でも、今回の海洋放出される処理水に関しては、隠れみのも何も適切にALPS処理されて、それをさらに希釈して安全基準をさらに下回る値にして処理するわけで、原子力の権威であるIAEAの査察も通過しているわけで、何も隠しているわけでは無い。

「隠れみの」の意味を調べると、それを着ると姿を隠すことが出来るという、鬼や天狗がもっていると空想される蓑の事で、そこから転じて実体を隠すための手段の比喩として使われる、と説明されています。この説明に沿うならば、今回政府は「科学」を利用して何か不都合なことを隠していることになります。それは、今回の場合は「風評被害」に当たるのだと思うけれど、科学を利用して隠しているのだろうか。隠しているものじゃ無いですよね。科学的に「問題無い」と言っているのに、勝手に一部の人が「問題だ」と騒いでいるのが「風評加害」であり、それによって地元が迷惑を被っているのが「風評被害」なわけですから。

そう言う意味では、未だにメディアや一部の政治家・組織の海洋放出や福島第一原発に関する主張や意見に報道は、「現地の人たちのお気持ち」なる曖昧なものを「隠れみの」にして、事実では無い事や間違ったことを声高に広めている事を正当化しているんじゃないのか。言い換えれば、報道機関やメディアを「報道の自由」を隠れみのにして、本来するべき事実の伝達や正確な情報の公開ではなく、自分達の思う「正義」を振り回しているだけ、だと。ネットでも指摘されているけれど、例えば「放出反対の地元漁師」だったり 「放出反対の一般市民」だったりとしてメディアに登場する人がいつも同じという指摘は、まさにメディアが報道を隠れみのにして、議論の誘導をしている証拠だと思う。本来ランダムであるはずの「街頭インタビュー」に、何故か同じ人が時期や放送局が違っても何度も登場するのと同じ事を、ここでもやっているんですよね。そう言う意味で、この記事の見出しは、

報道を隠れみのにするな 処理水の風評退治はメディアの仕事

とした方が適切というか、それが全てだと思う。 

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