ジャーナリストの佐々木俊尚氏が紹介されていた、「文系vs理系」に関してのtogetterのまとめスレッド。
まとめにありますが、逆に文系の自然科学への無知も原発事故やコロナで暴露された。結局は両方必要だってことなんですよ、この複雑で多層な21世紀社会を認識するためには。/「理系が人文系の勉強したくない」と言うならそれでいいけど https://t.co/eGc5lheNCP
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) June 22, 2023
最近の事例で言えば、新型コロナウイルスに関しては、「文系=ワクチン・マスク不要派」vs「理系=ワクチン・マスク推奨は」みたいな事が当てはまる気がするけれど、一方で突拍子も無いことを言い出す文系的人達に対して、「〇〇脳」とか「情弱」みたいな形で端から相手にしない理系的人達にも問題があると思います。
一応自分は理系の人間なので、考え方とか行動に関しては語られている理系的要素が大きいのだけれど、その中でも時代的にも幼少期の経験からも結構文系的要素も経験して蓄積してきているので、案外個々での結論である「文系・理系両方必要」という状況に近い気がします。自宅は、昔は周りが田圃や畑の田舎の中似合ったので、子供の頃の娯楽なんて殆ど無い状況。そんな中で、どういう経緯かもう記憶して居ないけれど、江戸川乱歩の「怪人二十面相」シリーズに出会ったことで、読書好きになった事。これを手始めに、伝記物とか小説みたいなものも読み出して、小学生定額の頃にはかなりずっと本ばかり読んでいる子供で、親戚から飽きられるくらいに。小学館が発行していた、「小学〇年生」シリーズは、小学三年生位から記憶に何となくあるんですが、あれって学校なんかで推奨して家庭毎に契約していたのかなぁ。結局小学六年生まで読んでいた気がする。更に、小学生の頃には学研の「科学」と「学習」も、ずっと両方購入していて、特に色々な実験とか紹介されていた「科学」にハマって、以後理系の道を進むことになります。「子供の科学」も毎月読んでいたなぁ。あと、アマチュア無線の免許を取得してからは、「CQ Ham Radio(CQ誌)」も読んでいたし、あの頃はお小遣いらしいお金は貰っていなかったけれど、殆ど書籍代に消えていたことは確か。その後SF小説にハマって、当時出版されていた国内外のSFは殆ど読破していたと思う。だから、理系としては珍しく読書量は凄く多かったと思います。
仕事を始めると、一応ソフト開発系の部門に配属されるんですが、当時の開発形態は「ウォーターフォール型」の大規模開発の思想時代で、実は開発工程毎に膨大なドキュメントが作成されて更新されていくもの。当時は、そのドキュメント(「製品計画書」、「テスト計画書」「製品仕様書」等等)は膨大な量で、専任のエンジニアが居て毎日何かホストコンピューターの機能を使用してドキュメント制作をしていましたね。それだけ文書が有ると言う事は、そのレビュー作業もあるわけで、最初の頃は訳が分からない英語の仕様書を読むのが苦痛でした。でも、数年もしないうちに今度は自分がそういう文書を作成する側になって、泣きながらドラフト作ってレビュー回して、鬼のようにコメントや修正を入れられて、また泣きながら更新したなぁ(笑)。ソフト開発では、そういうドキュメンテーションが重要と言われながらもその為のリソースが馬鹿に出来ないと言うことで、例えばソースコードに使用をコメントの形で入れるとか、ドキュメンテーションせずに先ずはコードを動かすことを優先するアジャイルとか、どちらかと言えばコーディングに専念する時代になってきたので、最近の(というかここ20年位か)ソフト屋さんがドキュメンテーションが苦手というか嫌うのも何となく分かる気がします。
自分の立場から見ると、「文系=営業・フィールド部門 」vs「理系=開発部門」見たいな関連付けもなり立つような気がします。昔から両者は対立する関係が続いていたけれど、それじゃ不味いという事で2000年頃から生まれてきたのが、PM (Project Manager/Management)という立場の人じゃ無いかという気がします。PMでも、出身が度力で結構バイアスが掛かる場合も有ったけれど、ある意味そう言う「調停者」みたいな存在というのは、目立たないけれど重要ですよね。それまでは、技術は凄いのに苦しんでいる会社とか、製品はたいしたことないのに何故か物の売り方は上手くて成功している会社とか、色々あったけれど、最近は自分達の得意なところを責めるニッチ商品で成功したり、クラウドファンディング何かは埋もれた理系(=技術)を上手く世の中に出す新しい仕組みだと思う。そういう風に見ると、理系組に足りない文系要素を補助する仕組みはそれなりにあるけれど、文系組に足りない理系要素を補助する仕組みって何だろうか。WikipediaとかChatGPT等が候補になるのかもしれないけれど、そこに含まれる情報が正しいとは限らないので、変な陰謀論に染まる文系組が増えてしまうのが逆に新しい問題かも。カフェオレ飲料のCMで「白黒付けないカフェオーレ」というのは、凄く秀逸なセリフだと思うんですが、同じ事を文系vs理系にも言えるんじゃ無いだろうか。例えば将棋の藤井聡太七冠は、どちらかと言えば文系的な将棋の達人だけれど、コアなAMDユーザーとしても有名で、そう言う意味では両方の要素が融合した存在だと思う。理系の世界では、もう20年位前かな、「エバンジェリスト(Evangelist/伝道師)」という言葉や立場の人がちょっとしたブームになったけれど、色々な分野でそう言う人の誕生や増加が必要なんでしょうね。いずれの場合も、自分の立場に関係無く、多方面に気配り目配り出来る中庸さが重要なわけで、そこが一番難しい所ですよね。だから、一つの目標・ゴールとして目指すのも良いんじゃ無いかと思う。
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