2023年6月7日

欧米視点での日本論

ネットで話題になっている、週プレ NEWSでの、モーリー・ロバートソン氏のコラム。コラムコーナー名が「挑発的ニッポン革命計画」と、文字通り挑発的な名称なので、それも含めて過激な内容で議論を拡大させることが意図なのかもしれないけれど、「議論という名の娯楽」と言う発言はどうだろうか。これが通るのであれば、彼らが日頃政府に要求している「丁寧な説明」だって、政府が「十分した」と思えば許されることになってしまう。

モーリーさんは、多彩な人だし知識も豊富だし、それに応じて様々な経験もあるから、彼の発言に関してはなるほどと頷けることも多いけれど、やはり欧米系の考え方に基づく意見もあって、それはいくら日本での滞在が長いとはいえやはりちょっと自分とは違うなぁという印象も受けます。今回の発言に関しても、「LGBT 法案を成立させることが目的」のように感じるわけで、本来はその中身内容に関して考えないければいけないはず。さらに言えば、先日のG7サミット前には、G7 で日本だけがと言われていたけれど、キリスト教を基盤とした欧米の社会形式と、それよりは緩やかな( 雑多な)  な社会組織だった日本を比べて同じことを要求するのも無理があると思う。

また、記事を読んでいて違和感を感じるのは、いわゆるLGBTの人たちの権利支援の話と、同性婚の話が意図的なのか無意識になのか混在して話されていること。同性婚というのはLGBT関連問題の一つではあるけれど、異性婚と同等の権利や保証を認めることは今でも可能なわけで、そういう解決方法も検討されていいと思うんですよね。「婚姻」と言ってしまうと、憲法問題にも関係してくると思うので、それを目指してしまうといつまで立っても解決しない。現憲法は、今のLGBT関係の意識など皆無だった時代に、そういうことを認めていないアメリカ中心に作られたものだから、「同性婚」を意図していないと私は思っています。だから、本当に解決が必要ならば憲法改正が必要と思っているけれど、それはまた「憲法改正」という別の大きな山を超えないといけなくてさらに時間が必要になる。ならば、今「婚姻」ではないけれど、同等の権利を与えることをまずは考えて実現するほうが、利益は大きいんじゃないだろうか。

その上で問題になるのは、LGBT 問題というけれど、実はLGBTだけではなく、LGBTQ+と続く「Q+」の部分、場合によっては「T」の一分も含めて、生物学的性別と精神的性別の差が固定化されないことが今の問題の原点だと思う。「複雑化する議論不要」というのは、民主主義の否定でもあるけれど、実は要求している内容自体が欧米視点での話で日本にはそのまま適合しづらいから、まだまだ議論が必要という側面もあるんじゃないかと思っています。社会的背景も違うわけですし、彼らのキリスト教ベースの社会背景と日本の八百万の神の社会背景では、随分とこれまでの経緯も異なるわけですし。更にこの手の議論で感じるのは、マイノリティーの人たちへの支援や対応は早急に進める必要があるという点は理解できるけれど、だからといってマジョリティーの人たちへの配慮はなくても良いという理屈にはならないと思います。そういうことを配慮せずに、ごく一部の人は自分たちの権利や主義だけを主張するから、多くの人の共感を得られないことになっているんじゃないかと感じます。そういう意味でも「議論の範囲・内容を絞るべき」と言うのであれば納得できるけれど、娯楽化しているから不要と切り捨ててしまうのは、やはり間違っている気がしますね。一種の傲慢さ、優越的発言のように感じてしまう。だから反発も生まれるのだと思います。

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