愛知県のアサリの不漁に関しては、何かで聞いた記憶があったんですが、その原因と思われるのが余りに清浄化しすぎた排水処理かもと言う話。この記事を読んで直ぐに思い浮かんだのが「水清ければ魚棲まず」という諺。汚すぎる架線には生き物は住めなくなるけれど、逆に余りに綺麗すぎる場所にも魚は住まない。そこから転じて、余りに清廉潔白すぎる人にも人は付いていかない」という意味にも。富士市だったか沼津市だったか、凄く綺麗な富士山の伏流水からの清流が有るけれど、何故かさなかが一匹も居ない川だったかな、そんな場所が合ったように記憶するのですが、まぁ何事も100%完全というものは存在し得ないし、存在したとしてもその100%に100%完全に合致しないと釣り合わないという事なんでしょうね。
自然界のバランスに関して考えてみると、「食物連鎖」とか「三角ピラミッド」とか、その中には微妙な依存関係だったり、ヒエラルキー構造が存在することで、全体のバランスが保たれて犠牲を払いつつも共存共栄することが出来ているという事なんでしょうね。想像だけれど、本能だけで生きる生物の場合は、そういうバランスの中で僅かな環境適合能力しか無いのだろうけど、そこに「道具」とか「知恵」みたいなものが少しずつでも生まれてくると、そのバランスから抜け出て独自の生活様式というか、独立した存在になることが出来るんでしょうね。その最たるものが「人間」なんだろうけど、例えばゴリラとかチンパンジーだったり、あるいは知恵があると言われているカラス何かは、もしかしたらその片鱗なのかもしれない。
物作りをしている、物作りの経験のある人なら分かると思うんですが、その蔵作物が完全に近づければ近づけるほど、大変になるんですよね。完成度が90%位までは努力に比例してどんどん上がっているけれど、それが90%から95%になると急に大変さのカーブが急になり、95%から96%、96%から97%となると、高々1%所か0.1%とか改善するだけでもそれまで費やした労力以上の労力が要求されてきたりします。だから物作りをする人は、どこかで「妥協」しないと少なくとも「商品」「製品」と呼ばれるものは作れない。「芸術品」は別ですよね。それはとことん追求していくことが目的なものだから。でも、それ故に一生完成しないものでも有るんですよね。それと、結果的に不満ではあるけれど残さざるを得なかった「問題」とか「欠点」みたいなものが、逆にその製品の特徴とか面白みみたいなものになったりする場合も。まぁ、それを理由に改善しなきゃいけない問題をそのまま残して出荷してしまって、大きな問題になってしまっては元も子もないけれど。
今回の記事は愛知の話でしたが、ここ数年は浜名湖の潮干狩りとか駿河湾の桜エビの不漁が言われているけれど、こちらも同じような原因なんだろうか。浜名湖の方は今年も確か禁漁というか潮干狩り中止になったと思うけれど、桜エビの方は何年振り蟹解禁となり、結構豊漁だったらしい。桜エビは、やはり駿河湾にソ続河川の上流での伐採とか開墾したときの土砂流入が原因と言われていたので、今回のテーマとは逆の話化もしれないけれど、結局は駄目であろうと良いことであろうと、やり過ぎ行きすぎは問題という事なんでしょうね。犯罪何かでも、もちろんどんどん取り締まるべきではあるけれど、それが行きすぎて例えば「怪しい」だけで逮捕する、取り締まる何て言うことになれば、それは自由な社会とは言えない。それに近いものが、実は自然界にもあるという話なんだろうなぁ。面白い。
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