2023年5月31日

こじつけ報道

TBSのアナウンサー、安住紳一郎氏の思わず本音が漏れてしまった(?)発言についての記事。TBSを代表するアナウンサーで、日本の中でもトップクラスの知名度と人気と実力を持つアナウンサーであることは誰もが認めるところ。でも所属しているTBSの報道姿勢には、ちょくちょく不満を感じるようなニュアンスを感じる発言をしている気が個人的にはします。 今回もその一環かもしれないし、日本のメディア全体の雰囲気に対して安住氏としては不安というか危機感を感じているのだろうか。

大きな事件が発生すると、家族関係やら近所づきあい、友人関係に学生時代の様子に、さらには生まれ育ちまでそれまでの人生を全てメディアが調べて暴露していくけれど、あんなの何でプライバシーの侵害にならないのか毎回不思議。この手の事件の場合、加害者・被害者、両方の立場の人が発生するんですが、裁判で判決が下されるまでは「加害者側」も容疑者でしか無くて、犯罪が確定したわけじゃ無い。今回の長野の事件も、目の前で複数の人が殺傷されたことは何人も目撃者がいて明らかなんだけれど、それでも現時点では「容疑者」であり犯罪が確定したわけでは無い。となれば、容疑者として指名が報道されるのは仕方ないとしても、加害者と確定させてその犯罪動機を推測するために過去の履歴を引っ張り出して無理矢理理由にこじつけるのは、捏造に近い行為と言われても仕方ないのでは。過去、銃器に興味が有り学生の頃から手製の銃器を製造。それを利用して何かの襲撃事件を起こした、と言うくらいまで具体的な話であれば、学生時代の銃器への課題な興味が事件へと繋がった、みたいな分析はまぁ妥当かなと思うけれど。

自分達の世代だけで無く、結構どの世代でも共通した傾向だと思うのですが、若い頃ヤンチャしていたような人が、その勢いで若い頃に結婚して子供が出来ると、案外その後は良いオヤジになって、安定した家庭を築いていてそのギャップに驚くみたいな話って有るがちだと思うんですよね。学生時代の影響が今にもあるとすれば、そう言うやんちゃな人はみんな犯罪者になっていなくちゃ行けない。でも実歳は、結構目立たない人だとか優秀だと言われていた人が、後年とんでもない事件を起こしたりこの手の容疑者として突然昔の名前が記憶から蘇ってきたりすることの方が多いんじゃ無いだろうか。詳細に調べたり精神的な事を考えたら、もちろん当時の環境や自分自身の状況が、後に影響したり遠因になったりしたこともあるだろうけど、それだけが理由とも言えないだろうし、実はもっと直接的な大きな理由がその後に遭遇して事件を誘発したことだってあるだろうし。そういう原因や背景を精査して、何らかの判断を下すのが事件裁判だと思うんですよね。その事件や細馬に興味を持って、自分の考えなり推測をする事は自由だと思うけれど、それを公の場で公開することに関してはもっと責任を感じるべきだと思う。ネットもそうだと思うけれど、自分は単に自分の思いつきを呟いているだけのつもりでも、その発言場所に寄っては公の意見と見なされたり、他の人に大きな影響を与える機会になりかねないわけですから。

だから、こういう事件報道に関しては、裁判の判決が出るまでは報道は事実の伝達のみに制限するべきじゃないだろうか。それに、容疑者に対しての報道以上に、被害者報道が加熱してしまいその被害者のプライバシーも公にされされて、所謂セカンドレイプ状態になることも多いわけですからね。酷い場合には、容疑者の氏名や詳細は匿名のままなのに、被害者に関しては氏名から勤務先、場合によっては居住地まで赤裸々に伝えられて、そちらの方に興味が集中して騒ぎになる場合も。あれをみる度に感じるけれど、完全にメディアによる犯罪行為に近いと思う。更に問題なのは、メディアが一旦一つの見方を報道すると、それ以外の意見や批判が攻撃されたり封じられるような方向に進む場合も多いこと。LGBT関連の話題で、少数派の人の意見や要望を伝える事は良いと思うけれど、一方で現状でも問題ないと考える人や逆に反対する人の意見も「意見」な訳だから、それもちゃんと伝えて視聴者が判断出来るようにするべき。今のその手の報道に賛成出来ないのは、何故か一つの事例を全ての事例のように報道して、反論すること自体を批判する事なんですよね。まずは、

 事件報道と卒業文集は切っても切り離せない関係だが

と言うような勝手なこじつけを先ずは辞めるべきだと思う。 

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