2023年6月1日

騒音ならぬ環境BGM

カエルの鳴き声が五月蠅いから対応しろと田圃の持ち主にクレームを入れたという記事。ぱっと思い浮かんだのは、自宅の周り同様、昔は田畑が広がる田舎だったのが、最近の宅地開発でアパートや一戸建てが立ち並ぶような地域の話なのかなと言うこと。それまでカエルの鳴き声なんて聞いたことの無い例えば市街地から、新居を購入して郊外に引っ越してきたら、この梅雨の時期に帰るの合唱に初めて遭遇してびっくりして驚いて参ってしまった、みたいな流れだろうか。 「今日は出かける予定なのに雨が降っては困る。晴れるようにしろ。」と気象庁に文句を言うような話だけれど、気持ちは分からないでも無い。

私も生まれてから高校卒業までは自宅(実家)で生活していて、その頃は帰るやら野良猫やらそういう声は普通に聞こえていたもの。家自体も、冊子で機密性が良いわけでは隙間風も入ってくる木造の自宅だったので、遮音性だって良くなかったし。で、浪人時代から四半世紀くらいは、大学や就職で地元を離れてそう言う自然音の無い都会で生活していて、久し振りに自宅に戻ると正直久し振りに耳に入ってくる外の音は気になりました。暫くすれば、昔の記憶もあるからか気にならなくなってきたけれど、やっぱりそれまで耳に入ってこなかったものが入ってくると、より気になる事は確か。でも考えてみたら、都会だって自動車の騒音だったり酔っ払いの声だったり、決して静かなわけでは無いし、単純に騒音計などで音量測定をしたら、値だけ見たら都会の方が「五月蠅い」んじゃ無いだろうか。だから、騒音と言っても音の大小では無く、聞き慣れていて自然と無視できるものなのか、聞き慣れなくてより癪に触るのかの違いだと思う。私も、自宅に戻って最初の年のこと、秋に開催される近くの神社のお祭りの音が凄く気になってイライラしたことがあります。まぁ、その時は昔と違って夕方から揺るまでカラオケ大会をやっていたり、やはり昔は無かった祭り囃子がスピーカーから流されたりと、昔と比べても騒々しかったこともあると思うし、何よりも周辺にアパートや一戸建ての宅地が増えて、周辺人口が当時の何倍にもなっていたから、集まった人の声だけでも結構な音量になりましたからね。

少し前に、子供の声が五月蠅いからと公園が廃止されるという話が話題(問題?)になった事がありましたが、あれはまだ子供の行動だったりするから少しはコントロール可能でそれで解決出来る可能性もあるだろうけど、自然相手の話は我慢するしか無いだろうなぁ。それに、元々住んでいた場所に後から田圃が出来たわけでは無く、元々田圃があった場所に後から引っ越してきたのだと思うから、そうなると田圃の方が先住権(?)があるだろうからそこで鳴いているカエルにも文句は言えないと思うのだけれど。まぁ、最近だと、花火が五月蠅い、盆踊りが五月蠅い、運動会が五月蠅い、等等、昔と比べて神経質になっているというか、もしかしたら言っている人の数はごく僅かかもしれないけれど、変に揉めることを嫌がって過剰反応することもあるのかなぁ。

時代の流れもあるので、イベントから発生する音を「騒音」と感じる人が増えてきても仕方ないとも思う反面、昔からあってずっと人間が接してきた自然の中の音を「騒音」と感じてしまうのはちょっと違う気がするなぁ。最初にも書いたけれど、自然の中で生活する機会が激減して馴染みが無くなってきているのに、何かの切っ掛けでそういう場所での生活が始まってしまうと、聞き慣れない故に「知らない音・馴染みの無い音=騒音」と感じてしまうのかもしれないけれど。リモートワークとかで、地方とかに行ってみたら、そんな豊かな自然環境に馴染めなくてまた都会に戻ると言う人も多いかもしれませんね。それにそういう環境の場合、音だけでなく、例えば虫が多いとか、色々な匂いがするとか、色々な豊かな自然の様子が慣れない人には「生活する上での障害」と感じる事も多いでしょうね。生活様式の変化とともに、そういう感覚が普通になる事も仕方ないのかもしれないけれど、一方でデイキャンプとかキャンプブームみたいな物も有って、自然に対しての憧れはまだまだ根強い気もします。綺麗な景色や清浄な空気だけで無く、そう言う「騒音」と最初は思ってしまうかもしれない物も「環境BGM」くらいのつもりで暫く聞いていれば、案外心地よく感じるようになるかも。それ位の寛容さは何時になっても無くさないようにしたいと思うなぁ。

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