2023年5月27日

ツールの機能よりも使い方に拘る

佐々木俊尚氏が紹介していた、Forbesに掲載された「生成AI検索」がニュースサイトを破壊するという記事。生成AIが与えられた命題に対して、様々な情報ソースを検索して、その内容をまとめて提供すると、検索者(=読者)はそのまとめ結果しか読まず、一次ソースの情報元へのアクセスが以前のGoogle検索と比較して激減するという話。それによって、一次ソースの広告収入が減り、ネットとしては有料化の方向へ向かうだろうという話。

これ、考えてみたらこれまでの電子化、デジタル化、ネット化の社会がそうであったんですよね。印刷された書物しか情報源が無かった時代、情報はそれら書籍を集めるあるいは図書館などで調べて知識や情報を得るしか無かった。それが電子化されてアクセスが簡易になると、多分その事典で電子化されていない情報に関してはアクセス頻度が減ったんじゃ無いかと。実は、重要な情報がそこで抜け落ちたかもしれない。さらにデジタル化されて例えばGoogle検索みたいな検索機能が提供されると、その検索結果から抜けた情報や表示位置が低い情報は参照されにくくなるでしょう。多分殆どの人は検索結果が表示されたら、1ページ目のリンクあるいは精々2~3ページくらい目までが目に触れる範囲で、それ以降のページには見向きもしない人が多いんじゃ無いだろうか。そこでキーワードとか変更して、多角的に検索範囲を広げる人はなかなか少ないと思う。その結果、電子化されてアクセス可能な情報も、どんどん抜けて行ったような気がします。そしてネットの時代になると、検索結果のアクセス数等が重み付けされて、その内容とは別に「参照数」が重視されると、実は必要な情報が含まれているものが隠れてしまうかもしれない。それがさらに生成AIによって限定化されるという話でしょうね。

生成AIがじゃぁ悪いのかというと、決してそうでは無く、例えば検索初期の頃などは広く浅く情報を集めたいときなどには凄く有効なのでは。アクセス数等で情報元のランク付けが行われることは問題だとは思うけれど、検索によって見逃されていた情報や自分にとって未知の情報へのアクセスが見つかることもあるわけで、その点は見逃せない。生成AIの機能やその結果を猛進するのでは無く、あくまで候補の一部を提供するものと割り切って、検索キーワードを変更して多角的に調べてみるとか、更にキーワードを追加して絞り込んでいくとか、「ツールとして使い倒す」事がユーザーとしての正しい態度じゃないだろうか。それって、例えば参考文献や書籍等を探す場合も、あちこちの図書館へ行ってみたり、神田の古本屋街を回ってみたり、そう言う事をして必要な情報(=書籍)を探すわけだけれど、それと同じ事が時代や形式が変わっても結局は必要と言う事だと思います。

結局は、そのツールに依存するのか、そのツールを活用するのかという、これまでのデバイスやサービスに対して言われてきたことと同じ事何ですよね。ただユーザー側の対応とは別に、アクセス数でビジネスモデルを構築していた既存の情報ソースは対策を立てないといけない。まぁ、有料化の方向に進むのは仕方ないことかなと思う反面、Wikipediaが生まれたような感じで、Wikipedia 2.0みたいな、ボランティアベースでの専門情報の提供エコシステムみたいなものが生まれてくるかも。今でも、例えばtwitter等で積極的に情報提供する専門家の方は少なくないけれど、一方でそれ以上に「エセ専門家」みたいな存在もでてくるわけで、今後はそう言うものをスクリーニングするような「生成AI」というか「分類AI」みたいなものが登場してくるかも。それはそれで、またAIによる人権侵害とか差別問題みたいな話にも繋がりそうな気がしてちょっと憂鬱何だけれど。結局、インターネットが社会に普及したときには「ネットリテラシー」とよく言われたけれど、今度は「AIリテラシー」とかいう言葉が生まれて社会常識化して行くんだろうなぁ。社会や時代の進化に取り残されないようにするのも大変。考えてみたら、今のレガシーメディアがまさにそんな存在で、だからより直接的な情報が得られるネットワークにシフトしているけれど、それはそれでネットには玉石混交の情報が混在しているので、さらなるリテラシーが要求される。なかなか難しい問題だと思います。

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