最近話題のChatGPT。私も早速使ってみて、その機能とか特にテキストベースとはいえ、日本語の認識能力と作成能力は時代の進歩を強く感じたところ。その将来性から、あのGoogleも慌てて同機能のサービス「Bard」を始めるとか、逆にMicrosoftは自社の検索サービスBingに、ChatGPTの開発元Open AI社の次世代モデルエンジンを組み込んで行くなど、いろいろとデジタル業界は喧しい。
デジタル業界のトップ企業がざわつくくらいだから、当然素人の自分のような人間は何百「へぇ~~」を叩いても追いつかないのだけれど、少し冷静になって考えてみると、この手の新技術だったり新サービスが登場した時には、確かに凄い技術・サービスだと感じるんですが、直ぐにそれが「当たり前」になり日常に埋もれてしまうことも。問題なのは、その日常化した時にどの様に自分達がその新機能・サービスを活用していくのかという所だと思うんですよね。実は、ChatGPTが登場して実際自分でも少し利用してみて感じたのが、「これって、Wikipediaが生まれて一般に使われるようになった時に似てないか」という事。
Wikipediaがそれなりに充実して、広く一般にも紹介されて「Wiki」という言葉がそれなりに認知されるようになった時、結構世間的にもざわついて、一番言われたのが「もう百科事典はいらない」「まずはWikiを調べれば十分」みたいな話。さらには、Wikipediaの内容を切り貼りして卒論だとか論文だとかを作成する人間に表れて、暫くしてそれが発覚して色々比較調査してみたら、実は結構著名な論文なんかでもWikiの内容が使用されていることが分かりちょっとした騒ぎになったり。確かに、当初のWikipediaは、それなりに知識のある人、専門の人がボランティアベースではあるけれど、知識や経験の共有目的のために書き込んでいて、それなりに専門的な内容で充実もしていたけれど、参加者が増えれば増えるほど、その内容にばらつきが生まれるのも自然の道理で、最近ではそのままでは信用できないという認識になっていると思います。ChatGPTも、まだ開発段階・成長段階だと思うのだけれど、早くもその内容に関しては得手不得手が今はあるし、内容に関しても時々間違ったことを出力することは指摘されています。だからと言ってChatGPTが否定される理由は無くて、多分今後はインターフェースの部分でこのツールの存在感は高くなるんじゃ無いだろうか。
Wikipediaの場合、その知識プールは個々の参加者の蓄積を集めないといけないけれど、ChatGPT(あるいは同類のAIツール)の場合は、支柱の情報を特定のルールで学習させることで、自然に身につく・構築する事が出来るというのが大きな違い。今のChatGPTにしても、元になっている知識プールがまだ限定的なので分野の得手・不得手があるけれど、今後もう少し機械学習が進んでいけば、提供する情報の品質内容に関しては、一般情報レベルとしては殆ど問題無いレベルになるんじゃ内だろうか。後は、常に情報が更新されていき、それこそ数秒前に発生した情報も取り込めるようになれば、知識・情報提供サービスのエンジンとして期待出来る気がします。更に、今でもあれだけ自然なテキスト出力できるので、あの音声合成が自然に出来るようになれば、それこそ電話などでの応対サービスをそのまま入れ替えても良いんじゃ無いだろうか。Wikipedia以前にも、例えばグルメ検索サイト何かも顕著だと思うんですが、そのツールに依存して鵜呑みにしてしまう事が問題何ですよね。その結果は開くまで「可能性の一つ」であり、自分で調査・判断・決定する工程の最初の取っかかり切掛でしかない。ChatGPTにしても、いろいろな「候補」を効率よく提示してくれるツールであり、その内容や品質に関しては今の所最大の機能ではあるけれど、それに使われるのでは無く、それをさらに人間が活用して付加価値を高めていく、と言う事が一番重要でしょうね。
P.S. ChatGPTの知識プールというか学習カーブみたいなものを「個人辞書」みたいな形で自分専用の要素を取り込めるようになったら、かなり自分に特化して、あるいは自分の行動を認識理解するようなAIサービスに成るんじゃ無いだろうか。となると、そこには自分の分身と言うか、場合によっては一番理解してくれる「親友」みたいな存在になって、そこに依存していくという事も生まれるかも。2DキャラクターやVRのアバター何かとリンクすると、「人間と機械の共存」みたいな世界が、もしかしたら実現するのかも。多分にSFチックな話ですが。
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