批判が高まる「れいわローテーション」に関して、山本太郎代表は「憲法に駄目とは書かれていない」「方の開け穴と言われるのならば法律を変えればいい」と、開き直りの発言をしたらしい。この論理が通るのであれば、某野党が主張している「立憲主義」を否定していることになるのだけれど、それはOK? 何故かスポーツ紙の方が一般紙よりも少し詳しく報道しているけれど、自分達の解釈が正しくて、文句があるなら法律を変えれば、と言うのは、立法府の責任者として終わっている発言なのでは。それに、変えたら変えたで、また文句を言うんでしょ? 仮に憲法改正が必要と判断したら、野党はそれに従うのだろうか。
記事を読む限りでは、ここでも巧妙なすり替えをしている気がします。例えば、与野党からの批判に対して「制度改革について何か私達からと言う事は考えていない」と、自分達の抜け穴手法を「制度改革」という言葉を使うことで悪いことでは無いという印象を与えようとしているように感じます。また、憲法上の問題という意見には「任期と3年ごとの半数改選しか規定されていない」と、グレーゾーンの話を有る無しの話にすり替えている。それは抜け穴が問題なら、問題と考える人が塞げば良いというのも、自分達の行為への批判を法律の不備という話にすり替えている。
一部のコア支持者には響く対応・態度だろうけど、無党派層とかざっくりとした支持者からは疎んじられるような行為では。特にこれまで野党は与党の行動に関しては、「憲法逸脱」「法律無視」という言い方で批判してきたわけだけれど、今後は少なくともれいわ維新の会はそう言う批判は出来ない事になるのだけれど。さらに言えば、彼らと同調する野党も同等と周りからは見られるわけで、それは損になっても得にはならない。私はこのローテーションには全く賛成出来ないけれど、仮に自分が代表として、この件に対しては言い訳というか反論するとしたら、
- 憲法違反と言われるが、憲法では参議院議員の任期と3年ごとの半数改選のみが定義されている。議員も職業選択の一つと考えれば、職業選択の自由、人権尊重等の憲法の項目と照らし合わせても、問題無い行為である
=> 木を隠す森をもっと広げてさらに曖昧にする - 制度改革と言われるが、私達は現行の制度の中で対応しており、特に新たな制度改革変更が必要という認識ではない。我々は立法府の一因なのだから、改革が必要と考える人が先ずはその内容を提示して意見するべきでは無いか。
=> 自分達は法律の範囲内で行動している事を強調し、必要ならば立法府としてやるべき仕事をしていない批判側が問題と視点をずらす - 「抜け穴」と言うが、我々のように限られた人材の中で以下に広く意見を聞き反映させるか、現行法の中で模索した結果であり問題無いと考える。問題があるというのであれば、国会の場で法改正について正々堂々と議論をしたい
=> 相手の根負けも含めて、長く広く話題を引っ張ること問題の希釈化を諮るとともに、国会という公の場での議論にすることで、良くも悪くも自分達の宣伝行為にも繋げる
物事の決まりを作る場合、全ての事象を記載することは出来ない訳で、だからこそ規則とか法律の場合は、「許されないこと」か「許されること」のいずれかを記載することで、それ以外の事は自動的に「許される」「許されない」という判別をするわけですよね。ただ、とは言ってもどうしてもグレーゾーンは存在するわけで、そこの解釈は「常識」に委ねられている。ただ、その常識は地域や時代、あるいは世代や性別でも異なるわけだし、具体的に決めれば決めるほど複雑化して硬直化していってしまう。だから、住みやすい社会というのは、その常識が文字通り社会で共有されている状態だと思うし、そうで無い社会では事細かに規則が決められているか、「許されないこと」が大前提で「許されること」が例外というような状態になりやすいと思う。個人的には、この人達は「政党議員」というよりは宣伝要員と言う方が適切だと思うけれど、それでも「議員」として成り立っているところに、やっぱり今の社会の不満が大きいことを再認識します。ただ、その不満の多くは実は経済問題を解決することで殆ど解消されるわけで、そう言う意味では今の政府は、例えばどんどん原発を再稼働して電気代を下げる、国債を発行して貧困世代への支援を手厚くして、さらに産業界支援(法人税を下げるなど)を積極的にして、就労人口を増やすことを目指せば、今は生活に余裕が無い人にも余裕が生まれて冷静になり、多分数年後にはこう言う扇動的な組織は消えそうな気がします。そう言う意味では、彼らがこう言う形で先鋭化してくることは、ある意味必要悪なのかもしれない。
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