佐々木俊尚氏が紹介されていた、「普通の味の喫茶店」の話。
暮らしは「ふつう」である方がいい。暮らしに派手さや驚きを求めるようになると、持続性が失われるのだと思います。「その人の生活の延長にあるような、毎日食べても飽きないような、ふつうの味」/「ふつうの味」の喫茶店|山口祐加@自炊料理家|note https://t.co/tqe06L2Ap2
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) November 12, 2022
最近は全く喫茶店に入ることが無くなり、多分もう10年以上、いゃ20年以上利用したことは中も。コメダにも入ったこと無いし。でも、自宅で母親が長いこと喫茶店をやっていて、子どもの頃から店番とかコーヒーを入れさせられたりしていたので、喫茶店の「雰囲気」に関しては、多分普通の人以上に良く知っているつもり。
街中の喫茶店の場合は、仕事や買い物などでたまたまその時に通った人が、ちょっと休憩とか小腹を満たすために入店する場合も多いのだろうけど、当時のうちみたいなお店は、それこそ常連さんで持っていたようなお店。田舎の中の(当時としては)小洒落た喫茶店だったと思うけれど、回りはまだまだ畑と田圃が広がっていたんですが、田舎は車社会ですし、たまたま自宅前の道は結構自動車の交通量が多い東西の接続道路みたいな場所だったこともあり、そこそこ繁盛していたと思う。だから、毎朝必ずモーニングで寄って貰えるお客さん、ランチ終わりで少し空いた時に来てコーヒーを何倍か飲んでいく自営業のお客さん、今でも記憶に残っているお客さんは多いですね。当時喫茶店を始めた母親は、名古屋の喫茶店を何度か訪問して勉強して、本人曰くですが浜松で初めてモーニング(コーヒー、サラダ、トースト、ゆで卵)を出したお店であり、さらにコーヒーチケット(確か10杯分の料金で11枚チケットが綴られていた)を取り入れたのも浜松では初めて(あくまで本人談、です笑)と、未だに昔話が出ると自慢するのだけれど、「普通の味の喫茶店」ならぬ「普通の場の喫茶店」だったんでしょうね。
「普通の場」と言いながらも、実は誰にでも会う「普通」というのは結構「特殊」な場でも有るので、結果的には「自分に合った場」「自分にとって居心地の良い場」というのが「普通の場」になるんですよね。カレーのココイチのコンセプトが、何度でも食べて飽きない、あえて「普通の味」を目指しているという話は何度か聞くんですが、実は自分にとってはあのカレーの味は結構特徴的に感じる物で、「普通の味」とは言えない。案外、チェーン店とかで出して居るであろう、業務用のカレールーベースのカレーの方が、自分にとっては「普通」に感じたりするし。良い素材を使っているとか、値段が高いとか言う価値観とは別に、自分の好みや気分に合っているかという部分で実際には「普通」と「非日常」を感じ分けているんですよね。例えば自分は仕事でずっと新幹線通勤をして居るから、新幹線を利用することは「普通」なんだけれど、結構多くの人にとっては新幹線に乗車することは「ハレの日」に近いイベントかもしれない。飛行機に搭乗することも同様でしょうし。
結局「普通の味」が経験できる場があるという事は、自分の取って精神的に安心出来る、安定出来る場でも有ると言う事なんだと思う。この記事では、多分街中でずっと常連さん相手に営業している古びた喫茶店と筆者の心情がマッチして「普通」という居心地の良さを体感したのだと思うけれど、今の若い世代なんかだと、スタバとかの雰囲気の方が「普通」と感じて居心地の良さを感じるかもしれない。食事にしても、自分中はそれなりに通っている馴染みのお店が一番落ち着くけれど、やはり今の人だと回転寿司とかファミレスみたいな場所の方が「普通の味」「普通の場」として、安心出来るんでしょうね。別にお店のランクとか、そこで出される物の内容が重要なのでは無く、そう言う場所をどれだけ自分としてリストアップしているか、どれだけ手軽に利用出来るかと言う事が大切なんだと思う。記事の登場する喫茶店のように、店主のさりげないサービスを良しとする場合も有るだろうし、逆に何もしない場合が良い人も居るでしょう。結局、この筆者もたまたまこの喫茶店を検索して見つけて、出かけるという行動をしたから出会えたわけで、黙っていても向こうからこういう機会がやってくるわけじゃ無い。自分が「心地よい」と思いたければ、自分から何か掴みに行く動機も重要だということは忘れないようにしないと。
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