2022年8月28日

ミイラ取りがミイラに

火を消すつもりで水を掛けたら、実は油火災だったので逆に火の手が広がった、みたいな事は一般的にも良くある事だけれど、この映画盗撮の告知が逆に盗撮の切っ掛けになってしまったという記事。もう随分と映画館には行っていないので私は観た事が無いのですが、国内でも映画上映の前にはカメラの頭のキャラクターが盗撮禁止の告知をするらしいけれど、逆にそれによって触発されてしまう人が多いという事らしい。 

報道などで何か悪い事をした人の効果とか報道されると、結構「そんな馬鹿な」とか「俺ならもっと違う方法を」とか思う事は決して少なくない。例えば電話での詐欺でも、テレビ等で実例を聞いた人の多くは「なんであんな事で」とか「私なら引っかからない」とか言うんですが(私の両親もそう)、現実そう思っていい手もまさか陣のところにそんな電話があるとは思わなかったり、自分は大丈夫騙されないという変な自信が油断を招き、本当に例えば自分の孫から電話が掛かって来ているととつい信じてしまう。

多分伝える側も微妙な所で、全く伝えなければ報道機関としての役割を果たしていない事になるだろうし、かといって余りに詳細に伝えたら、加害者側には新たな対策アイデアを与えてしまうだろうし、被害者予備軍側には変な安心感を与えてしまう事にもなるかもしれない。多分日本人気質なのか、あるいは人間の本質なのかもしれないけれど、そう言う天の邪鬼なところって結構有りますよね。流石にそれが大きな犯罪に繋がるような場合、例えば人の怪我を負わせるような場合とか、相手の財産を奪うような場合には躊躇して実行にまでは至らないだろうけど、例えば映画の盗撮のような場合には、ハードルが低く感じてしかも自分のリエにもなるかもしれないと言う「甘え」から、つい無意識に敷居を超えてしまうんだろうなあ。私なんか、例えば映画ならより高画質高音質で視聴したいとい思うから、ああいう盗撮で記録したようなものには全く興味が沸かないのですが、例えば最近のようにデジタルデータで簡単にコピーが出来て、それが簡単に入手出来るような方法があるとしたら、もしかしたら自分つい心が揺れ動いてしまうかもしれない。

先日も一寸最後に書いたけれど、毎日取り上げられている旧統一教会系の話題も、実は真実をメディアは報道しているつもりで、実は何かよりどころを見つけたい「信者予備軍」みたいな人達に取っては、かなり大きな刺激というか切掛になっている気がします。だからメディアとしては、今のように旧統一教会の教義とか活動を知らしめる事で多くの人が「これはヤバイ集団だ」と認識すると思っているんだろうけど、そう言う事こそ特定の人には嵌まると言うか刺さる事が多い気がする。めでやるべきだった事は、具体的な違法行為なり不法行為を示して、「こう言う事例が今でもあるのだから注意が必要」というところがギリギリのボーダーラインだと思う。それが、「旧統一教会許すまじ」みたいな方向性で、かつそれを理由に政権批判に繋げて、あまつさえ対立する野党もそれに便乗したところ、自分達も同じような事をやっていた事が分かり、メディアだって決して清廉潔白では無かったことが分かると、段々と報道の方向性も熱意も変わってきている気がします。それは「自業自得」だからまだしも、記事のように「ミイラ取りがミイラ」になってしまわないように注意しないと。

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