投票日直前に起こった、安倍元総理殺傷事件。丁度参議院選挙の投票日直前だったこともあり「民主主義への挑戦」という言い方をするニュースキャスターや解説者が多かったけれど、個人的には一寸違う気がします。その理由は、安倍氏が今回の選挙の立候補者では無かったこと。彼が立候補者でその遊説中に今回の事件に遭遇したのであれば、それは「国民の選択を否定する」民主主義への挑戦であり危機でもあると言えるけれど、今回の場合安倍氏は応援演説に来ていたわけで、そこは一寸意味合いが違ってくると思う。また、今の所の容疑者の言い分では、安倍氏の政治理念や考え方に不満を持っていたわけでは無く、自分の家族や自分自身が影響を受けた某宗教団体との繋がりにふまんを感じての、言いがかりみたいなものな訳で、そこは「民主主義への挑戦」というよりは「個人の尊厳に対しての挑戦」とも言うべき行動じゃ無いだろうか。
例えば同じ事件が、政治家では無く別の有名人、例えば慈善活動とかに熱心で有名な俳優さんだとか実業家に対して行われたら、多分「民主主義への挑戦」とは言われないと思うんですよね。仮に安倍氏が自分の主義主張として、例えば「夫婦別姓反対」と言っていて、それに対して容疑者が夫婦別姓賛成の立場から凶行に及んだとすれば、それは政治で決定する行為を力で改変しようとすると言う意味で「民主主義への挑戦」とも言えるだろうけど。まぁ、今回の行為も自分の勝手な思い込みから、最悪の選択を実行したという事で、「話合い」が前提の民主主義が否定された事は確かなんだけれど、其れ以前にそれと同じかそれ以上に重要な「個人の尊厳」が否定されたことの方がもっと重大な事象ではないだろうか。
また、その某宗教団体の代表が安倍氏であるなら、その団体に恨みを保ったが故にその代表者に対して行動するという動機は分からないでも無い。でも、安倍氏はそんな立場にいるわけでも無く、その団体との関係も確認された物では無く、自分の思い込みだけの行動なわけで、そこには「民主主義」なんていう高尚な考えは微塵も無い。そこに有るのは自分勝手な思い込みと、我が儘な行動理由なだけで、一分の正義も無い。民主主義と同等以上に重要な、「個人の権利が否定された」という重い事実しか無いでしょう。私は、その点をもっと伝えないと、似たような行動をとる人間は何度も出てくると思うし、今回の事件に刺激された「愉快犯」も登場してくる気がする。「個人の尊重」は民主主義の基本の一つであるから、大きな意味では勿論「民主主義への挑戦」ではあるかもしれないけれど、それは個人の否定というもっと根本的な問題を希釈することになるような気がするんですよね。それはまたこの大きな問題を別の意味へと歪めてしまう可能性を生むことにもなるんじゃ無いだろうか。
「力で自分の主義主張を通す」行為は、今のウクライナ戦争がその典型で、彼方は国家対国家の衝突だから、民主主義への挑戦という言い方が正しい気がする。勿論、その中には数え切れないほどの個人に対しての理不尽な行為が集まって居るわけで、個人が集合して「民主主義」という大きな存在にまで範囲が広がっているから正しい表現だと思う。そう言う意味では、今回の安倍氏への事件もそうだけれど、例えば「虐め問題」とか「弱者への強要」みたいなことも、個々には小さな事、些細なことであっても積み重なることで大きな問題になる可能性を忘れてはいけないと思う。
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