2022年6月5日

やり過ぎは作為

個人的には、余り自分の考え方とは反りが合わ無い印象の人なんですが、ご結婚(再婚)されてから、その発言に同意できるものが増えてきたような気がする、室井佑月氏のとあるツイート。

たまたま、トイレに間に合わなさそうな時の単なる印象なのか、それとも最近色々な意味で話題というか議論になる男女同権というかとあるフェミニズムに対しての反発なのか、でも、この意見には同意できるなぁ。

歴史的に、女性の権利だったり立場が男性よりも蔑ろにされてきていたことは事実だし、それは正されないといけないことも事実。ただ、だからと言って何でもかんでも同じようにしろというのは、単に見かけ上の「平等」を演じるだけで、女性が望む本来の「公平」の獲得にはならないと思う。さらに問題なのは、その状況を利用してというか逆手に取って、自分達の権益だったり立場を優位にしようとする、一部自称「フェミニスト」とか「女性代表」みたいな人達がいる事じゃないかと。彼らの言っている事は、いかにも女性の立場や権利の制限を解消して、男女平等を実現しようとしている風にも感じられるけれど、結局は男性はもとより女性すらも犠牲にして、自分達の欲する世界に近づけようとしているだけのような気がする。

先のトイレの表示の問題にしても、日本の中で、言葉に違いや差別がある事は怪しからん。だから日本の言葉を「標準語(=東京弁)」に統一して、東北弁も、遠州弁も、関西弁も、広島弁も、福岡弁、それら方言は許さない。という世界が理想的なのか、と言う話ですよね。権利や立場を公平にすると事と、その人の個性や志向まで制限することは全く別のことだと思うし、ある意味真逆な話だと思う。子どもの個性を伸ばそうと言う話が、いつの間にか「言うことを良く聞く、優等生の子どもにしましょう」という耳障りの良い話しから、反攻しない、意見も出さない、言われたことしかやらない子どもばかりになったら、それは望ましいことなんだろうか。

運動の切っ掛け、あるいは有る程度軌道に乗るまでの一つの実例として利用することは有りかなとは思います。でも、本来ならば有る程度のところで「それは限界を超えているだろう」と言える人が出てきて、そこで止めるあるいは次の方向性を示すべきだけれど、今はネットの活用なんかで歯止めがきかなくなる場合も多いですからね。既に過ぎ去ってしまった過去を変えることは出来ないし、未来がどうなるかも誰も分からない。だから、「今」をどうすれば良いことを常に考えて、その時その時にベストと思われる事を続けて行くしか無い。でも、その自伝でのベストが、そのまま次の瞬間もそうであるかどうかは分からないわけで、一番大切なのはその都度反芻してそのままで良いのか、別の方向が好ましいのか自問自答していくことのはず。それを許さない用な何となくの風潮が、一つ決まるとそれを変えることを許さないんですよね。一人一人の問題であるとは思うけれど、今のメディア事態がそう言う風潮を利用しているのが、やっぱり問題だと思う。
 

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