2021年10月28日

Unity in Diversity

日本共産党の機関紙(?)「しんぶん赤旗」が、10月24日の一面で「多様性の統一で新しい政権を」という見出しの記事を掲載し、ネットではちょっとした話題に。「『多様性』を言いながら『統一』を主張するのは矛盾では」というのがその内容なんですが、確かに矛盾した言い方。

ちょっと調べてみると、どうもこれは「Unity in diversity」という言葉を訳したものらしいけれど、そのコンセプト自体は西暦1200年前後くらいまで遡るらしい。その後、1938年にバハイ教(Baháʼí Faith)の「卓越した原則」として使用回されて、近年に至るらしい。日本では、こんな記事を見つけて、そこで使用されている「多様性の中の繋がり」というのが、個人的には「多様性の統一」とか「多様性の中の統一」という訳語よりは、より日本語としてしっくりくる気がします。この記事の中で、

「多様性」(Diverisity)が尊重されるべきである一方で、「みんな違ってみんな良い」で終わらせてしまうのではなく、多様性が尊重される中でも同時に「結束」(Unity)することの価値を謳うこの言葉は、グローバル化が進展し、様々な価値観や意見が衝突し合う今日における平和を考える上で、大きな鍵を握っていると思う。

という言葉は、「なるほどなぁ」と思わずうなってしまいました。私なんかも、「多様性」に関しては抵抗ない方だと思うけれど、「みんな違ってみんな良い」止まりで、そこから「さらに将来の多様化」みたいな所までは、中々頭が回らない。例えば、多様性を「色」だと考えてみると良く理解出来る気がします。元々「赤」と「青」しか無かった所に、「緑」とか「黄色」とか、色々な色が登場してくるのが「多様性」。それを「統一(=混ぜる)」してしまうと、黒色にしかならない。でも、色々な色を色々なバランスで色々と組合せ見れば、どんどん新しい色が生まれてくる、みたいな感じでしょうか。 

以前も書いたけれど、この手の話ってどうしても「過去を否定して、新しい基準のみ認める」みたいな「All or Nothing」「1 or 0」という結論を要求してくるんですよね。でも、世の中そんなにスッパリ二択で解決出来るほど単純じゃ無いし、いきなり言われても社会の大きな慣性がついているものを、急に方向転換することは勿論、止めたり無くすことは出来ない。だから、個人がそう言う意見を持つことは自由だと思うけれど、仮にも公な政党を代表するような組織体がこういうことを言うのは、実は本音が垣間見えたのか、余り言葉の意味には熱心では無いのか、単なるミスなのか分からないけれど、でも「あんまり真面目に考えていないんじゃないの」と感じる事は確か。

もう一つよく分からないのが「多様性の統一」がなんで「新しい政権」に結びつくのか、ということ。多分「Unity in diversityを尊重している我々に政権委譲を」という意味何だろうけど、"Unity in diversity"も重要な社会要素だけれど、それが全てでも無い。と言うか、今選挙に候補者を立てている政党、あるいは立候補している1000人余りの立候補者の中で、「多様性」を否定している政党・人はいるのだろうか。個人的に、多様性の振り幅に違いはあるだろうけど、公に否定している組織・人はいないはず。となると、「多様性」そのものが選挙での争点になる事は内容に思うのですが。「多様性」の中の個別の課題として、例えば「夫婦別姓問題」とか「同性婚問題」とか具体的に挙げるなら分かるけれど、それら全部をまとめてひとくくりにして「多様性の問題」としてしまうのも、一寸乱暴な話だと思うし。「多様性」故に、その内容は多種多様に分類されて、しかもその規準・既定も多種多様なんだろうから、有る程度絞らないと話も噛み合わないと思うんですよね。そう言う意味でも「多様性の統一」という言葉は、世の中に逆行する以前に、多様性を否定している言葉でしか無いんですよね。それを分かっていっているのだろうか。そういう所があるから、信用できないんだよなぁ、この人達は。

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