2021年2月4日

パターン認識

佐々木俊尚氏のコラムから、信頼出来る専門家と信頼出来ない専門の見分け方について。今回のコロナ禍に関しては、もう一年以上も続く状態で有る事もあって、色々な人がメディアに登場しているけれど、似たような話は例えば少し前ならオリンピック関係でも感じたし、その前だと豊洲移転関係で「何とかエコノミスト」みたいな、資格不明な肩書きの人が重用されたりとか、時期や内容は別にして「メディアが使いやすい素材」として、かなりニーズはあるんでしょうね。

中には、「専門家馬鹿」と言っては失礼かもしれないけれど、専門の話は凄く性格でまともなんだけれど、それを一般のメデイアを通じて伝える術が拙くて誤解されたり批判されたりする人も。そういう人は、情報の核は問題ないけれど、伝搬部分に問題があって、真逆の理由にされたり批判の中心になったりとどうも損ばかりしてていて、結果表舞台から消えてしまうのは、情報自体は正しい事を言っているだけに勿体ない気もします。スポークスパーソンじゃ無いけれど、上手く翻訳して伝えてくれるような存在がいれば、ある意味無敵な存在にもなると思うのだけれど。

逆に、元の情報の信頼性は低いのだけれど、「伝え方だけは上手い人」っていうのは困ります。伝え方が上手いだけに、特に映像メディアでは重宝される存在で、誰とは言わないけれど某放送局コメンテーター氏とか、某国民的何でも知っているおじさんとか、酷い的にはデマ拡散に近い場合もあるわけで、ああいう存在をメディアが重宝すると言うことは、メディア時代にもそう言う事を許す素地があるという事ですよね。それは、視聴率というメディアの生存意義だったり、会社としての存続をするための経済的理由だったり、理由は色々なんだろうけど、それって会社の利益のために粗悪品を売る製造メーカーとか、誇大広告を打って高い買い物をさせる悪徳不動産みたいな存在と変わらないんじゃ無いかと。

じゃぁ、我々視聴者なり読者はどうすれば良いかと考えると、佐々木氏は「群れ」という言い方で、その情報発信者だけで無く、そこに繋がる層も含めて判断することを提唱されています。これって、自分も同じ考え方をとしていて、私はその情報中心から周りの様子を含めて全体を俯瞰するような形で周辺情報も含めて判断する「パターン認識」と勝手に言っています。多くの場合は、情報の信頼性を周辺も含めて判断するんですが、それとは別に例えばその中心の意見に対して、回りに反論する存在が結構含まれていて、それも含めて情報中心の人が意見交換をしているような場合なら、その意見が自分とは相容れない物であっても、その人の発言に関しては有効だと判断もしています。つまり、それなりに理由が有、反論にも対応出来るだけの根拠を持った意見と言うは、やはり傾聴する価値はあるし、それなりに意味がある物だと思うから。そう言う意味でも、自分と違うか排除するという単純な行動だけではドンドンバイアスが掛かるけれど、周辺情報も含めて俯瞰する形で色々な意見を見ていると、結構新しい発見があって、それはある意味自分としての喜びみたいな物にも昇華していく気がします。そう言うパターン認識能力を高めるためにも、日頃から色々な意見に目を通すようにして、自分の目と頭を鍛えないと中々そういう能力は身につかない。ネットという世界は、そう言う事にうってつけなんですが、如何せん玉石混交で「石」の方が多かったりするから、そう言う事を承知して生活するという、リテラシーを先ず身につけることが一番重要でしょうね。

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