SNS上では「悪者」扱いされることの多い「社会学者」に関して、twitter上で社会学者はどの様に語られているのか考察した記事。結果は予想通り(笑)だったけれど、「社会学・社会学者」全体に問題があるのではなく、目立つ少数の社会学者の振るまい・挙動が、全体の評価を著しく下げているというのはその通りだよなぁと納得。
リンクで紹介されている鈴木謙介氏の「続・社会学は何をしているのか」と、その前段となる「社会学は何をしているのか」も読んでみて感じるのは、「社会学は社会を観察して何らかの意見を表明する学問(※自分流の理解)であるから、その表明された内容が自分の理解と多くの場合乖離しており、故に反発が生まれやすい」のでは無いかという事。「続・社会学は何をしているのか」の最後に、「鳥の目と虫の目」という言い方が登場するのですが、多くの社会学の話は、その「鳥の目」で社会を俯瞰して、自分なりの解釈を与えるのだろうけど、その俯瞰の角度なり範囲なりをどんなに頑張っても社会全体を見ることは出来ないし、場合によっては「自分が欲している物を偶然のように見つけてしまう」事も多い気がする。勿論、社会学は社会全般を研究しない蹴ればいけないわけではなく、その社会の中の特異的な部分を研究することも意味があると思うし、その場合は鳥の目の俯瞰だけでなく、その近くや内部に入っての虫の目的な研究も必要だと思うんですが、往々にして自分にとって都合のよう方法だけに集中することも。これは、社会学だけで無くて、理系の研究とかでもありがちなことで、ついつい都合のよう実験結果だけを収集して結論づけてしまうと、とんでもない結果になるのと同じ。だから、その研究手法自体が間違っていないと思うけれど、実体が中々掴みにくいだけに不信感はどうしても感じますよね。
そう言う意味で、元記事の後半に書かれている「研究では無くガバナンスが批判されているのでは」というのは的を射ている気がします。まぁ、これもどの業界でも有る話だけれど、大御所的な存在になってしまうと、中々その本人に対して反する意見とか注意することが難しくなることもあると思うし、それが度を過ぎると関わり合いたくないという気持ちの方が強くなるのは、どこでも同じ。ただ、理系の場合には何らかの形で物理的に証明されたり、数値的に定量的に証明することが出来るから、そう言う材料で反論することも出来るけれど、視点によって異なる一人一人の解釈が許される例えば「社会学」の場合は、答えはあってないようなものだから難しい。でも、元記事に上げられている社会学者の皆さんの名前を見ていると、結局この人達への批判は、その研究内容に対して寄りは、その人達の物の言い方というか、ある意味不遜な態度であったり、不適切な言葉の使用出会ったり、ネット上やリアル社会での行動であったりとか、実は「社会学の成果に対して」では無く「その人の振る舞いへの批判」が殆どじゃ無いだろうか。それが、そのまま「社会学への批判」という形で誤認識されてしまっている不幸では無いかと。
じゃぁ、そう言う存在を「排除」する事が健全化になるのかというと、それはそれでまた違うと思う。それって、結局は「言論封殺」であり、排除した方が今度は排除された側の立ち位置に変わるだけで、それが延々と繰り返されるだけになりそう。理想的なのは、色々な意見に対して、賛成・反対、何れの立場も自由に交換が出来るような環境があり、それぞれの立場を理解した上で、有る場合は妥協点を見つけたり、有る場合は両論併記では無いけれど互いの意見の存在を認める事で、結果として複雑に絡み合う社会組織のような言論空間が維持されて内容が充実していくことなんでしょうね。それは、社会学者が研究対象としている「社会」の構造そのものなわけで、まさに社会学の対象として社会学を選択することが、一番の解決策になりそうな気がする。でも、それが出来ないから今の状況になっているわけで、それって「ヤマアラシのジレンマ」にも似たデッドロック状態だなぁ。そして、その閉塞感が学問に対しての閉塞感になり、衰退した後に「新社会学」みたいな物が生まれるなら良いけれど、そのまま閉塞感だけの絶対的な存在になりつつあるのが、今の社会学の立ち位置じゃ無いだろうか。少なくとも、時分的にはそんな「帝国の崩壊の始まり」みたいな感じに見えるなぁ。
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