2021年2月12日

カンカラコモデケア

喜多野土竜氏のnote記事から、「カンカラコモデケアの問題点」について。 毎日新聞でそんな文章作成作法が推奨されていたとは全く知りませんでしたが、そう聞いた後であの新聞社の過去の記事を思い返してみると、凄く納得出来る気がする。

作家の笹本祐一氏が問題提起されているtweetを引用する形で説明されていますが、エッセイとか何かの紀行文なら理解出来るけれど、事実を伝えるべき「新聞記事」の中に、主観的感想や演出するバイアスにフィルターみたいな物を含めたら、それって「ノンフィクションの形を取ったフィクション」にしかならない。さらに言えば、「デ」は「データのデ」らしいけれど、そのデータだって恣意的に好ましい値のみ利用すれば、如何様にも解釈できるわけで、これはすでに色々な記事で実証済み。結局、「新聞記事」というお墨付きの元、個人的あるいは組織的な「主張」が公の公正な情報として伝搬されて、読者に謝った認識を植え付けていくわけですね。

新聞社としても私企業だから、当然部数は伸ばさないといけないし、それがあって広告も取ることが出来るので、読まれる記事を書くことは経済活動としては重要だと思うけれど、其れ以前にやはり公共的立場として「事実」を伝えるという使命を忘れて貰っては困ります。昔はそれでも、新聞紙面では事実報道に力を入れて、その後にそれらをまとめた「特集記事」であったり、まとめの書籍などを制作して居た頃は、まだどちらも理解出来るし納得出来たけれど、最近は最初から「我々の真実を伝える」という事で、鼻から信用できない情報が一面を飾ったりしています。

問題なのは、それがその紙面だけに収まっていればまだしも、直ぐにネットを通じて大規模に拡散していくこと。そして、一度拡散してしまうと、後から幾ら修正しても元には戻らず、またそれがいつの間にか「事実」として一部ではあるけれど定着してしまうこと。その為に、どんどん意見対立も激しくなるし、真面目に登録しようとしても決裂の度合いが酷くなるばかりで、妥協点とか共通認識なんて生まれないような状態にどんどんなっていきます。それも、元々の情報にバイアスやフィルターが掛かっているからで、そう言う意味ではこの毎日新聞の「カンカラコモデケア」なんていう作法は百害あって一利無しと言い切っていいんじゃ無いだろうか。例えば、この作法を利用して論文と書いたら堂だろうか。少なくとも技術系や科学系の論文では即却下でしょうね。でも、人文系特に社会学とかあたりだと、凄く受けそうな気がする。そう思うと、最近のその手の学者先生の活躍具合も納得出来たりして。

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