2021年2月6日

野崎和夫氏、逝く

またまたフットボール好きには悲しいニュースが。明治大学アメリカンフットボール部総監督の野崎和夫氏が、先月27日に永眠されていたという発表が明治大学アメリカンフットボール部から。自分の世代だと、関東では日本大学がショットガンで席巻していたときでしたが、その関東の大学チームでその日大と互角に戦えたのが、この明治大学、しかもショットガンとはある意味真逆の「オプション」で奮闘していた時代でした。

「オプション」は、一般的にはQBに二人のRBがセットし、キーとなる相手ディフェンス(LBとかDEとか)の動きを見ながら、1) RBにハンドオフをする、2) QBがボールを渡さずキープする、3) もう一人のRBにピッチ(ボールをトスするように素早く投げる)、の三つのプレーを瞬時に選択しつつ前進するランプレーの一種。色々なパターンがあるんですが、後年にはRBにピッチせずにパスしたりとか、どんどん多様化複雑化して行ったんですが、その先兵は明治大学だったと言っても過言じゃないような状態だった、と。

当時、自分達の大学チームは「プライベートリーグ」と呼ばれていた、所謂「体育会」ではない同好会チームが集まったリーグに所属していて、レベルの差は天と地くらい離れていたんですが、当時の明治大学にはそのプライベートチーム所属のチームが各学部毎にあって、何かの時に明治大学の何処かのキャンパスへ行ったときに、丁度この体育会の明治大学グリフィンズの練習風景を見る機会がありました。明治大学は、当時は「少数精鋭」と言えば聞こえは良いけれど、多分40名位じゃ無かったかと思うんですが、それでもそんなことを感じさせないスピードと迫力でビックリした記憶があります。甲子園ボウルには5回出場して、残念ながら優勝はしていないのですが、最後の1985年の試合は甲子園へ観戦に行った記憶があります。この試合、対戦相手は関西学院大学で、関学は確かショットガンオフェンスを取り入れた最初のシーズンだったと記憶しています。この時明治大学のオフェンスを指揮したのは、ロン毛のQBの渡邊弘幸選手で、RBはパワーランナーの吉村祐二選手。オプションも冴えていたけれど、吉村選手が関学のディフェンスを切り裂くように走る姿に興奮しました。対する関学も、歴代名QBの一人芝川龍平選手にWRにはやはり日本を代表するレシーバーの堀古英司選手が、ショットガンオフェンスで得点する、両チーム点の取り合い「殴り合いの試合」に。4Q終盤関学が48-46と逆転すると、明治大も残り6秒でゴール前3ヤードまで前進。ここで、RB吉村選手のダイブを期待しましたが、万一のことを考えてFGを選択。でも、この時何故かキッカーでRBの吉村選手が登場してキックするんですよね。それが当時不思議でした。キックは失敗して逆転ならず明治大は初優勝のチャンスを逃すのですが、その背景も含めて詳しい状況はこちらに書かれていて、かなり時間が経過してから当時の裏話を知ったわけですが、あの試合は何度か観戦した甲子園ボウルの中で未だにベストゲームの一つですねぇ。

アメリカンフットボールの監督・コーチといえば、自分達の世代だと先ずは関西学院大学の武田健氏と日本大学の故篠竹幹男氏を思い浮かべますが、その次に浮かぶのは自分は明治大学の野崎和夫氏だなぁ。当時見た明治大学のオプションの切れ味は、アメリカのカレッジのプレーと比較しても遜色なかった気がする。なんと言っても、1970~80年代は、日大のショットガンに対抗してオプション中心だった関学が、それを捨ててショットガンを取り入れたのに、明治大学はオプションを磨き上げてその日大を倒したわけですからね。近年こそ、パスオフェンスも取り入れた「マルチプルオフェンス」になっているけれど、それでも未だに明治大学の試合を見ると「オプションやらないかなぁ」とスタンドから思ってしまうくらい(笑)。日本の大学チームにも、多くの名将・名伯楽がいらっしゃいますが、その中でも特筆される一人で会った事は間違いないでしょうね。非常に残念ですが、ご冥福をお祈りします。


2 件のコメント:

  1. 何故か野崎さんの事を思い浮かべて、pcをサーチしている中で、出会いました。1970年後半から1980年代半ばまで、野崎さんのもとでいう事も聞かず
    自由にプレイさせてもらったことを思い出しながら、、、。

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    1. コメントありがとうございます。また公開が遅れてしまい申し訳ありませんでした。丁度自分が明大フットボールを見ていた時期に、チームで活躍された方のコメントを頂き嬉しいと思うとともに、あの頃のフットボールをもう一度見てみたいなとあらためて感じます。国内フットボール界の名将のお一人だったと思います。

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