ITmediaから、元ANA CA、元気象予報士の河合薫氏の記事から、ANA HDが発表した外部企業への出向について。全体を要約すると、「出向」をネガティブに考えるのでは無く、新しい環境で新しい自分発見のチャンスと前向きにとらえることを強調されています。自分などの世代だと、やはり「出向=左遷」みたいなイメージが強くて、私も入社後7~8年目くらいだったかなぁ、関連会社の開発部門に出向を打診されたことがあったんですが、その切っ掛けというか理由が、当時のマネージャーとのコミュニケーションミスというか、そのマネージャー氏が必要なこちらの希望を誤解して出向候補者に入れてしまったので、それは自分の意思では無いと強硬に反対して、その後紆余曲折有って出向ではなく部門移動になった経験があります。別の、その会社が嫌だとか言うわけでも無いし、仕事も同じ内容(対象製品も最新機種)で、本来なら不満はなかったけれど、そのマネージャー氏が本当は自分のミスなのに、それをこちらの希望みたいな感じで押し通そうとする態度が不満で、「それなら退職します」とまで言ったなぁ。
閑話休題。それぞれの仕事の環境や内容によって感じ方はそれぞれだと思いますが、自分の場合は仕事の8割9割が海外、特にアメリカのチームとの仕事になるので、実は日本にある所属部門との関わりは結構薄かったりします。また、通年通しての仕事というよりも、プロジェクト単位での仕事で、それも短期から長期の物様々な物が並列して走っていたりするので、そう言う意味では「仮想出向状態」なのかもしれない(笑)。しかも、一応職位的には「PM (Project Manager)」ではあるんですが、直接お客様と対話する機会も多いので、結局は「便利な何でも屋」みたいな立ち位置になってしまい、開発だけでなく営業的な事や技術支援みたいなことも要求されて、をぃをぃと言う場合も。まぁ、刺激が豊富と言えば豊富なんですが、大変でもあるし、その分色々得ることも多いことも事実。そう言う意味で、河合薫氏が書かれている「出向をチャンスに考える」ポジティブシンキングは悪くないと思うし、自分もそう言う前向きな方向性を持ちたいと思います。
ただ、報道などでは否定的なトーンで伝えるから、どうしても本人的には不安の方が大きいでしょうね。また、受け入れる側としても、別に「ANA (あるいはJAL)」というブランドが欲しい訳ではなくて、その環境で使える「人材/リソース」として受け入れるわけだから、例えばインターンみたいな感じで別の職種経験みたいな感じで派遣されても困るでしょうし。まぁ、航空会社のCAさんやGS(地上スタッフ)は、基本接客対応は十分教育も経験もされているだろうから、そう言う分野ならその仕事の商品知識を学べば問題ないでしょう。さらには、それぞれ状況は違うけれど、突発的な対応能力であったり、問題解決するためのスキルも一般の人よりは経験も知識も持っているだろうから、案外自分の興味とか得意分野に嵌まれば、それこそ出向先の企業から逆に転籍とか転職を請われる人も少なくないんじゃ無いだろうか。場合によっては、その企業とANAのコラボ企画とか、提携とか、将来的にANAとしても非航空事業以外での収益を伸ばすことは言っているので、その良い切っ掛けになるのかも。そう言う意味でも、結構この「出向」は重要な施策に気がします。
ところで、河合氏の記事で
個人的な話になりますが、私はANA国際線就航2年目に国際線のCAになりました。(中略) なにせ、私がANAに入社した頃は、片手で数えられるほどの飛行機しかなかった。たったの4機です。入社してまもない頃に「マジ! たったの4機しかないの?」と衝撃を受けたことは、“記憶の箱”に深く深く刻まれています。
と書かれていてビックリ。ANAの最初の国際線就航先はグアムで、1986年の3月3日ですから、河合氏が入社したのは1987年と言う事になります。となると、私とそんなに変わらない年齢(勿論、彼女の方が若いけれど)になるのか。もっと若い方だと思っていた。流石に「4機」というのは、国際戦用機材という意味だと思うけれど、グアム線に続く国際線は、1986年7月のLAX/IAD、1987年4月の中国路線、7月に香港線と続きますから、流石に「4機体制」では1987年時点でマネージ出来ないと思うけれど。でも、歴史を感じる話だなぁ(笑)。私も、就航2年目になるのかな、1988年の11月に、アメリカからの帰国便でIAD-NRTのフライトを利用して、これがIADでメカトラブルのために12時間近くの遅延になり、成田には日付が変わってから到着した経験があって、個人的にも忘れられない路線ですね(笑)。もしかしたら、あの機内に河合氏もいたかも(ないない...)。
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