2020年9月27日

乱れる国語

朝日新聞の記事から、「国語が乱れている」と感じる人が20年前と比べて減り、代わりに「乱れていない」と感じる人は増えている、という話。「乱れている」の定義を、「その言葉の本来の意味以外での使用が多様化している」ならば、確かに今はそうでしょうね。でも、その「本来の意味以外での使用」が新しい意味を付け加えること、反語的に使用してより強調する目的での使用とかだったら「乱れている」と言えるのだろうか。

私も昔は結構気にする方だったんですが、ある時普通に使っている言葉や言い回しが実は御用だったことを何度か経験するうちに、「これって、言葉は生き物、言葉の成長・進化」と思った方が良いんじゃ無いかと思うようになりましたね。ただ、記事を読むと、単にその言葉の意味の違いだけでなく、例えば敬語の使い方とか、短縮したり組み合わせたりした造語の「若者言葉」も含めての話とのことで、そうなると「乱れている」という印象は、自分世代などは強くなるのかなぁ。

仕事柄、日本語の中でも英語が登場する場合が多いのですが、それをそのまま使用する事が多いのは、ある意味「職業病」だけれど「言葉の乱れ」と言われるのかもしれない。ただ、日本語のカタカナがまさにその証明だと思うんですが、外国語の言葉・発音も積極的に取り入れてきたところに、日本語の柔軟性と将来性があるようにも思うんですよね。明治維新の時に、外来語に感じを当てはめて例えば「Newspaper→新聞」の用に、「新日本語」みたいなものを想像し、それが今では本家の中国に戻って確か日常使われている中国語の半分くらいが当時の日本人が「創造した」言葉になっていたんじゃ無いだろうか。一方で、「外来語はカタカナで表示する」という方法もあって、だから日本に入ってきた時代によって、昔は日本語に置き換えたけれど(例えば、象とか)、明治以降入ってきたものは、そのまま発音をカタカナで表記している、みたいな話を何処かの番組で説明していて、なるほどと。そうなると、今では馴染みのある動物の名称にしても、日本語とカタカナの外来語表記が混在するわけで、それって見方によっては「乱れ」とも言えるし、「成長・柔軟性」とも見えるのでは。

まぁ、全ての事象を許せるわけでは無いけれど、自分達が10代、20代だったころには、当時の40代、50代の先輩から「最近の若者は」と言われていたのと同じで、今では自分達がそう言うことを知らないうちに行っているんでしょうね。そう言えば、何百年とか千年くらい前の古書にも、当時の高齢者が「最近の若者は」と投げている記述があるとか聞いたことがありますが、やはりそこは仕方の無い話では。結局、回りの社会システムや文化が変わっている以上は、それを昔の言葉だけで表現しようとするにしても無理が生まれてくるわけですし。そこで、高齢者が若者言葉に何か抵抗を感じたのならば、逆にそう言うことをフィードバックしてみるとか、フィードバックしないまでも自分なりに咀嚼して自分流にしてみるとか、そういうことをやっとSNSで認知されたら、それはそれでまた新しい動きになるんじゃ無いだろうか。まぁ、「乱れる」と否定的に感じるのでは無く、「何か面白いことがあるかも」くらいの肯定的な印象で行きたいですよね。

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