2020年8月11日

料理の手間

少し前に、スーパーでポテトサラダを購入しようとした主婦に対して、男性が「そんなもの自分で作れ」と罵声を浴びせられたみたいな話があり、それが今度は冷凍餃子を夕食に出したら旦那さんから「冷凍かぁ」と言われて主婦の手間を理解していない話になり、さらにそれが今度は唐揚げに飛び火したらしい。これらを、新型コロナウイルスの影響によるイライラ・精神不安定というのは少し無理がある気がして、何か「美しき誤解=はた迷惑」の図式があるように思いますね。

私は、最近では実家に戻ったので自炊をすることは余り無いけれど、以前一人暮らしの時には基本自炊。さらに、母親は今でも昆布、鰹節、煮干し等から出しを取って、毎朝の味噌汁にしても、その他料理も作る人だし、和食以外にも洋食も中華も、今でも料理本とか買って試してみるような人。その血を受け継いでいるのか、自分も今では料理するのは嫌いじゃ無いし、そう言う環境で育ってきているので、味に関してもそこそこ五月蠅い方だと思っています。でも、そんな自分でも、打っているポテトサラダで美味しい物とか、一寸一品欲しいなと思えば買ってくるし、疲れて面倒なときには、それこそご飯も炊かずに、ビールと冷凍餃子だけの場合も有る。唐揚げなんて、よほどのことが無いと自分は自宅では揚げないし。そりゃぁ、何でもかんでも手作りしないと気が済まない、しかもその腕前が素人離れしている場合もあるだろうけど、多くの場合はそれが料理の準備とは言え手間は省きたいし、でも作った物は美味しく食べたい。だから、買って来た惣菜にちょつと一手間掛けても良いし、それこそ買ってきた容器から自宅のお皿などに取り分けるだけで、「味」は違ってくる物。今の時代、便利な物は使うべきだし、それで生まれた余裕をもっと別の物に有効活用するのが「文化」であり「利便性」だと思う。

仮に、ポテトサラダは自分で作れ、餃子は自分で作って焼け、と言われるのであれば、それなら材料のジャガイモは自分で植えろ、キュウリもニンジンもタマネギも自分で作れ、餃子の皮は買ってこずに小麦粉から練って作れ、と言われても仕方なくなってしまう。「材料の話と、調理の話は別」と言われるかもしれないけれど、それなら出来合のポテトサラダを買ってきて、何か追加で混ぜても「調理」になるだろうし、それこそ出来合のぼてとサラダをハムで巻いたり、レタスで巻いたり、それこそ春巻きの皮で巻いてあげてたって、立派な「一品」になる。家は、昔は農家もやっていて、それこそ自分の所で食べるお米も、それ以外に売る分も含めて結構な量稲作をして居て、それ以外にも味噌を造ったりとかもしていたけれど、それも外に無いから作る、高いから作らざるを得ない、と言う理由もあったんですよね。大量生産には廃棄などの批判もあるけれど、安定的に高品質の素材が安価に何時でも購入出来る事は大きな利便性だし、それが素材だけで無く半調理品とか調理品(=惣菜)まで広がることは、良い事はあっても悪いことでは無いと思うなぁ。

日本人の考え方として「苦労は買ってでもするべき」みたいな意識があって、それはそれで安易な方法に逃げずに挑戦することも大事という意味でもあるんだけれど、それが一寸ねじれ高いシャンになって、手作りで無いと駄目、出来合物は駄目、自分でやらないのは怠けているだけ、みたいな方向に解釈されるのは勘弁して欲しい。これ、製造業で言えば、部品から製品まで垂直統合された昔の日本の家電メーカーみたいな企業が正義で、OEM/ODMとかEMCは駄目な企業みたいな考え方が昔は結構有ったけれど、結局現状を見てみれば明らか。どちらが良い・悪いのは無しではなく、今有利なのは効率的なのはどちら、と言う話でしかない。「惣菜物が駄目」と言われたら、居酒屋とかファミレスにも行けなくなってしまうわけで、まぁ変な目くじらを立てない方が世の中上手く回るという話だと思う。

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