2020年8月10日

記憶は変わる

ジャーナリストの佐々木俊尚氏のコラムから、歴史に関わる映画の表現について。「時代を表す戦後映画史」シリーズとして、第一回第二回に続く第三回の記事。最近では、殆ど映画も見なくなり、かつここで取り上げられている映画にも詳しくないので記事もそんなに深く読めていないのですが、佐々木氏が「歴史改変かリアリティか」と第三回目で取り上げている内容に関しては、「現代に翻訳するか、当時を残すか」という言い方の方が適切なような気がしますが。というか、映画、あるいは歴史映像にしても、「ドキュメンタリー」とか「ノンフィクション」とか言われているものでも、結局は編集されて切り貼りされている時点で、すでに「歴史の事実」から変わっているわけで、そこに表されているものは100%の事実では無いと思っているので。

本当に「事実」を伝えるためには、一切の編集無しでライブで映像を流して、それも一方向だけじゃ無くてマルチアングルで撮影したもの以外は無理だと思うんですよね。でも、それは現実的には無理なわけで、どうしても発言は短縮されて編集されるし、場合によっては音声部分と映像部分が異なるタイミングのものが組み合わされたりする。時々ニュースでみる、例えば裁判の様子を伝える場合も、被告の発言を吹き替えで放送していますが、何となく悪い印象になるような声質だとか言い回しを使用しているんじゃ無いかと感じることが多々あります。本当ならば、本人が発言している映像を使うべきだけれど、それも出来ないから苦肉の策だとは思うけれど、そこはできる限り実際に近い形で再現しないと、試聴する方の印象が変わってしまうし、それは「捏造」とは言わないまでも「欺瞞」に近いものになるような気がする。

もう一つ考えるべき事は、近代くらいまでならそんなに今の言葉と違わないから分かるけれど、それでも当時の背景を知らないと成立しない言い回しとか、当時の社会状況を正確に表現しようと思うと、例えば喫煙シーンとか、男女の格差とか、今では問題になりそうな状況もそのまま表現しないといけない。実は、先日社内教育の一環で会社の創立からこれまでの変遷みたいなビデオ(アニメーションで再現した物)を見る機会があったんですが、創立当時の当時の関係者数名が、新しく設立する会社の理念や名前などを話し合うシーンがあったんですね。で、その中の一人が、タバコを吸いながら会話をしている。いゃ、当時は全くそれが普通の姿で、多分有る程度リアリティを考えて再現したアニメなんだろうと思うんですが、今の時代に当てはめたら、まず成立しないシーン。多分、多くの企業で同様のビデオを制作使用と思ったら、事実はそうであっても喫煙シーンは入れないだろうなと思います。まぁ、タバコを吸うか吸わないかは、当時の会社設立の状況に影響が無いわけだし、当時制作のアニメならまだしも、現在作成したものならあえて入れる必要は無いだろうなというのが正直なところ。

コラムの中では、当時は存在しなかったであろう、現在の問題を語らせることに疑問を呈しているんですが、それもその映画のメッセージ性というか、監督の演出の範囲だと思う。でも、「当時の史実に基づいて制作した」を理由に、その「演出」が「事実」として扱われることが多々あるから、それは止めて欲しいけれど。「実体験に基づいているから正しい」とよく言うのだけれど、例えば今自分の子供の頃とか学生時代の話を同窓会とかで話してみても、結構記憶違いがあるわけで、それは幾ら強烈な体験であっても時とともに変質してくるものだと思う。逆に、強烈な体験であればあるほど、その後の変質度合いも良くも悪くも大きくなるものだと思う。8月は、原爆の日や終戦記念日等、日本にとっては鎮魂の月ですが、そこで故人を偲び色々考えることは良いと思うけれど、戦後75年が過ぎ「個人の記憶」だけに頼ること無く、客観的な資料発掘なども進めて、何か一つ答えを出すのでは無く、色々な人が色々な方向から、色々な意見や考えを持つことが出来るようにして欲しいなと思います。そこで「平和」という大きな方向性にブレが無いのなら、その中で意見が違うことを排除するのでは無く、何が違うのか、どこか妥協点は無いのか、そう言う努力をして行くことが「平和」を継続していく原動力になると思う。

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