2020年7月29日

嫌われるポリコレ

Blogosに掲載された、御田寺圭氏(白饅頭氏)のコラム。「ポリコレ(ポリティカリーコレクトネス/Politically Correctness/PC)ではなく、それを利用するものが嫌われている」という話し。私も、平均的な日本人よりは、仕事やプライベートでアメリカに滞在した経験も長いし、向こうの人との付き合いも仕事以外のプライベートな時間などもあるので、多少はこの"PC"に関しては知っていると思うし経験もしていると思うのですが、確かにこう言う傾向が最近は多いと思う。

始めて海外出張した30年以上前だと、当時は身体障害や精神的な問題を抱えている人が、社会生活をするときにそういう部分を理由に差別したりしないという事が中心だったように思います。例えば「障害」意味する"Handicap"という言い方は差別的だから、"Disabled"と言うべきとか。さらには、手足が藤生な物理的障害では無く、自閉症とか知能遅れのような精神的な問題を持っていることを、その後は"Gift"と言い換えたりしている。否定的な意味を感じ表現を、肯定的な表現や明るい表現に言い換えることで、本人だけで無く周りの人間もプラスの気持ちや動機を持つことは良いことだと思うし、より前向きに社会生活する・出来る切掛になる事は確か。それは凄く重要な事だと思います。

ただし、それを"Gift"「贈り物」と言う言い方には、正直自分は疑問が沸きました。「(最初から欠けている)ハンデがある」という"Hadicap"という言葉を、「止められているだけ」という"Disabled"と言い換えるのは、まぁまだ理解出来るのだけれど、それを「贈り物」と美化するのはどうだろう、と。日本の諺でも「あばたもえくぼ」というのが有るけれど、それを凄く極端な言い方にした例じゃ無いかというのが私の印象ですが、それはそれで良いけれど、でも余りに行きすぎた表現もどうだろうかというのが当時からの印象です。

タレントの乙武洋匡氏が登場してから、日本での障害者に対しての見方・感じ方が、良くも悪くも大きく変わったところが沢山あると思うんですが、その一つに、彼が「(手足が無い事は)障害だと思わない、個性だと思う」という様な発言があり、あぁこれが自分の感じ方に一番近いんじゃ無いかと腑に落ちたことがあります。勿論、そんな風に割り蹴れない人も沢山いるとは思うけれど、背の高い人低い人、顔の大きい人小さい人、太ってる人痩せている人、そんな「個性」の一つといわれるのであれば、こちらとしても凄く受け入れやすい。だから、"Gift"ではなく"Character"と言ってくれれば、当時凄く腑に落ちたんだろうなと思います。で、PCが余りに行きすぎると、結局は「Giftである」と聞かされることが正義になってしまう不自由さが、目に見えない反発を醸成している気がするんですよね。そう感じたい人がそう感じるのは自由だと思うけれど、それを強要されることが大きくなると、理解が反発に変わってしまうのが、ここ最近の社会じゃ無いだろうか。相反する意見でも、相手に理解して貰うことは可能だし、相互理解の先に互いに妥協できる新しい付き合い型が生まれると思うのだけれど、理解よりもさらに同意や同化まで要求している、今の過激な人達の一面をこのコラムでは表している気がする。

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