少し前にあった、日本外国特派員協会の会報誌に、東京2020大会エンブレムに、新型コロナウイルスのイメージを掛け合わせたデザインが使用された件で、日本外国特派員協会側がそのデザインを取り下げたという記事。取り下げた理由は、大会エンブレムの著作権上の理由と言う事ですが、協会会員からは不満の声も出ている様子。曰く、「パロディーは芸術」「日本人はパロディーに不寛容」「欧米では考えられない」など。
「外国特派員」協会だから、「欧米では考えられない」と言うのだろうけど、デモ活動している場所が日本国内な訳だから、そこに欧米のルールを持ち込むのは正しくないのでは。社会通念上、共通の認識・理解という物はあるけれど、今回の件はそこに含まれるかというと違うと思う。また、「欧米では」と言うけれど、欧州と米国でも色々異なる物は多いわけで、余り大雑把に一絡げで言われても納得出来ない。今回の件に限らず、こういう「欧米では〇〇」とか「世界では〇〇」という言い方というのは、基本的には信じないようにしているんですよね。理由は、余りに主語が大きすぎて、そこで共有されている価値観という物は、多分凄く狭いごく一部の事柄だろうと思うから。先日の「世界では9月新学期が当たり前」と同じで、確かに割合的には9月新学期が大多数だろうけど、それに合わせるために単に時期をずらすだけでは無い、色々な作業やルールの変更必要なわけで、それらを変えてまで9月に変更する意味や価値があるのか、と言う所は言及しない。そう言う、ある意味胡散臭さを感じる言葉だなと、いつも感じます。
さらに、日本人はパロでイーに不寛容と言っているけれど、彼らの言う「パロディー」って、色々な種類やレベルがあるわけで、それこそクスッと笑える軽妙な風刺画から、一寸これは差別的じゃ無いのというかなり過激的なものまで、良くも悪くも「パロディー」の一言で片付けられてしまう危険性もあると思うんですよね。そう言う意味では、今回の大会エンブレムの外側の資格を、コロナウイルスのスパイクのデザインにしたものは、パロディーのレベルとしては捻りも感じられないし、インパクト的にも小さいし、不発だった気がする。さらに言えば、このパロディーの対象者がどこなのか分からないけれど、少なくとも日本人の感性に響くような物なら、特に問題は指摘されなかったはずで、それが出来ていないレベルの物だったから、これだけ大きな話にもなったはずで、完成度という意味では失敗だったでしょうね。また、今回の批判がオリンピックの不正をそらす目的と言っているけれど、結局以前からそう言うことを言い続けていて何年もたっているわけで、その間に彼らは何かこれという記事を書いたわけでも無いし、結局は何処かの野党と同じで「怪しい」という理由だけで、何年も一つのネタを美味しく使い回しているだけのような気がする。
日本人はパロディーに不寛容と捨て台詞みたいな意見も記事には書かれているけれど、そうかなあ。日本人は、多分世界で一番擬人化の好きな国民で、それってもしかすると「八百万の神様」に繋がっているんじゃ無いかと思うんですが、その擬人化で何を誰に化けさせるかというのが、一つのパロディーだと思う。例えば、気に食わない殿様をタヌキにするとか、怪しいビジネスマンがキツネになるとか、それって擬人化の形を取ったパロディーだと思う。決して日本人が不寛容な訳でもないし、嫌いでも無いわけで、単に、そう言う日本人の感性と、欧米での感性が異なることが最大の理由では。それに、パロディーが成立するには、その内容を理解する文化的な背景とか知識的背景も必要なわけで、それってやはり国民性とかにも依存する部分。そこを捉えられなかったことも、やはりパロディーとしての完成度の低さであり、だからこそ批判も多く集中していると言って良いのでは。そういう部分の理解が無いだけの批判だけでは、いつまでたってもこの協会に対しての理解も生まれないと思う。
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