誹謗中傷したり、一方的に相手を責めたり、果ては脅迫とか犯罪に近い行為や、意味も無い数字が恰も重大な数値のように拡散されたり、SNS関連の話題が続いている最近。その理由は色々言われていて、やれ匿名性が悪いとか、いゃ実名でも同様とか、個人のメンタルの制だとか、有名人やタレントは騒がれてなんぼとか、理由付けもいろいろ。でも、結局はSNSがどう変わろうと事の本質は一人一人の気持ちというか「心根」の問題だと私は思うんですよね。
一番近い例は、誰もが自由に利用出来る公園のような場所が相当するんじゃ無いかと。誰でも自由に利用出来るけれど、快適に利用使用と思うと、一人一人が遊具や設備を独占せずに、適度な時間で次の人に譲るような気配りとか、自分のものでは無いからと乱暴に扱ったり、壊れてもそのまま放置して知らん顔するようなことがあれば、あっと言う間に公園の設備や環境が悪くなって、継続して利用出来なくなってしまう。そうなったときに、「公園管理人」みたいな人が居て、そう言う行為をする人に注意をするとか、必要なら修復とか設備の手入れをしてくれるとか、そんな人が居てくれると助かるし快適ども向上するけれど、じゃぁそういう「管理人」のコストはどうするのか、ボランティアでもいいのか、でもその場合は責任はどうなるとか、という話が今度は生まれてくる。「じゃあ、公園利用のルールを決めよう」「そのルールは誰が決めて誰が責任者で誰が管理するのか」「ルール違反者に対しての対応や処罰は」「いゃ、それは行きすぎたろう。みんな自由であるべきだ」みたいな話しが、どんどん生まれてきてしまう。運良く、良い管理人なり責任者が現れてくれれば、その後は快適に利用出来るかもしれないけれど、そんな人でも嫌になるような乱入者がまた生まれるかもしれない。で、最終的には荒れるだけ荒れて公園は閉鎖されてしまう、と。
今は「匿名性」が言われるけれど、実名にほぼ近いユーザーIDから個人を特定出来るような仕組みだった、昔のBBSとかNews Groupですら、同様の話はあるわけですからね。利用するにはそれなりに技術力や理解力が必要で、利用者のスキルレベルがそれなりに高くて、それなりに精神年齢も成熟しているというユーザー層が殆どだった時代でも、「困ったちゃん」とか「荒し」とか呼ばれる人は生まれていたし、存在していて、会議室だったりNews Groupが潰れることもあったし。今と比べて、良くも悪くもそれなりに知識とスキルがあったから、今ほどは陰湿では無かったと思うし(どちらかというと、人の言うことを聞かない頑固者的な人が多かったような気がする)、まぁそれなりに狭い世界でもあったから、一旦悪い事を言われると実社会でも困ったことにもなる事が多かったように記憶しています。とは言っても、人の社会で困った人悪い人が無くならないのと同じで、ネット世界特に誰でも簡単に利用出来る最近のSNSでは、そういう部分が増幅されて加速されていることも事実でしょうね。
韓国や中国では、個人ID登録みたいな事をしないと利用出来ないはずなのに、それでも裏をかいて匿名利用みたいな事が可能だったりするし、まぁ時代が進んでSNSやネットが発達すれば、それに応じて良い点も悪い点も拡大していくのは事実。で、結局最後に重要なのは利用者本人なんですよね。車の運転にしても、免許制度があり交通ルールが細かく決められていて、色々な設備が日本中に準備されていても、交通違反は無くならないし、最近ではあおり運転とか問題になるし、どうしたって悪い部分をゼロにする事は出来ない。これは、世の中の物理現象に「絶対」が無いのと同じ事以上に、世の中には存在することだと思う。ただ、SNSの中での問題は、良い事、模範にするべき事が過小化されていて、悪い事や非難されるべき事が何故か過大に生まれてくることじゃ無いだろうか。それって、SNS自体の問題もあると思うけれど、そう言うものを面白可笑しく助長するレガシーメディアの問題も大きい。多少の誇張も有るかもしれないけれど、レガシーメディアに取ってSNSはライバルな訳で、そう言う意味でSNSの負の部分とか悪い部分を取り上げたくなるという点も、結構見逃せないと思う。一つ言えることは、SNSに限らず、世の中便利になるという事は、一見単純化されたように見えるけれど、実は表に見えない部分はますます混沌としていると言えるのかもしれない。
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