2020年5月29日

リアルで無い「リアリティ」

某恋愛リアリティ番組の問題が色々発掘されてきていて、実は「リアリティ番組と言いつつ台本がある」という話しや、「番組内の役割は割り振られて作られていた」みたいな話しも。私は、その番組も、同様の他の番組も見たことが無いのでその内容は知らないけれど、正直30分とか60分とかのテレビ番組として編集されて放送されている以上、本当の意味での「リアル」では無く、「リアル風」という意味での「リアリティ」番組なんだろうなと思っています。

リアリティ番組と似たような感じのコンテンツで、「ドキュメンタリー」とか「ノンフィクション」というカテゴリーがありますが、正直個人的にはそう言う番組も「リアル」では無く、今回同様「リアル風コンテンツ」だと以前から思っています。理由は、どんな内容であれば、実時間の映像を切り貼りして編集して、より短い時間でのコンテンツに仕上げているから。勿論、ドキュメンタリーとかノンフィクションを歌う以上は、オリジナルの現実性を損なわないように編集はされているんだろうけど、一人の人間(=プロデューザー/ディレクター)が加工した以上は、その人の主観なりバイアスのある客観性が反映されていることは事実な訳で、それは本当の意味での「リアル」では無いんじゃ無いかと。

今回の番組の設定は、シェアハウスに同居する男女のリアルな恋愛模様というのが売りだったとのことですが、その設定から何となく作為的というか、舞台設定に成ってるじゃんと言う突っ込みをしたくなる。視聴者としては、登場人物に自分との接点というか共感できる部分が見つかると、その人視点で参加しているような意識が生まれて、それで嵌まっていくんだろうけど、ある意味人生ゲームの実写版というか、リアルアバターみたいな感じなんだろうか。「集まれどうぶつの森」がブームと言う事だけれど、あれも自分が投影できて、自分が出来ない事が画面の中で可能になることがある種の快感になるからなんでしょうね。そう言う意味で、共感できるとどんどん気持ちがのめり込む半面、反発する存在とか状況になると、それに対しての負の気持ちもどんどん高まっていく気がする。そう言う格差というか、アンバランス感が、より現実的な印象を受けるだろうし、そこに何か非現実的なものを感じつつも、刺激として受け入れてしまうのかもしれない。

今回、出演者にどの程度の演技指導が要求されていたのかは分からないけれど、全くの「お芝居」ならまだしも、逆に編にリアリティを前提にした場合だと、コンテンツとしての自分の役割と、本来の素の自分の行為が混在していき、実は無意識に演技しているのに実はそれは自分の本来の気持ちだ、みたいな暗黙の誤解が心の中に生まれてしまうのかもしれない。ある意味、「お仕事だから止められない」という、実はリアルな世界には無い前提条件の縛りがそう言うものを生むのかもしれない。それを言ったら身も蓋もないのだけれど、リアルでは無い「テレビ画面」という枠の中で繰り広げられている事象は、結局は「現実」ではなく「テレビコンテンツ」というフィクションでしかないのかもしれない。それだからこそ、「恋愛リアル番組」ではなく、「恋愛リアリティ(Reality = 迫真的な)番組」と言っていたのだろうか。

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