2019年12月18日

ランドセルと欲しいものリスト

たまたま見つけて感心した、千葉市が実行していた恵まれない子供達への支援に、Amazonの欲しいものリストを利用している件。Amazonの「欲しいものリスト」に欲しいもの登録して公開しておくと、それを見た知り合いなどが誕生日とかお祝いにその商品なりをプレゼント(代わりに購入して送ってくれる)して貰える仕組みなんですが、目から鱗で確かにこう言う利用方法もあるなぁと、今更ながら感心しました。試しに「寄付 Amazon欲しいものリスト」で検索すると、同様の試みはいろいろと既に展開されている様子。

10年位前だったか、クリスマスプレゼントで突然ランドセルが「タイガーマスク」の匿名で擁護施設などに送られてきて、それがブームみたくなったけれど、当時から「ランドセルもありがたいだろうけど、それ以外にも必要なものもあるだろうし」と思っていました。実際、検索してみると、実は色々な理由からランドセルは入らない、迷惑という現場の人の意見が多いように感じます。曰く、ランドセルくらい本人の希望の物を買ってあげたい、デザインや数が合わない、もっと必要な物がある等。確かに、一年の特定の時期に特定の商品だけが大量に渡されても、嬉しいと思うのは凄く限定されているところだけだろうなぁ。

アメリカの社会を、限定的だけれど多少なりとも眺めた経験がある物として感じるのは、向こうでは「寄付」という行為が普通に行われているということ。節背対策とか社会的名誉にも繋がるので、所謂富裕層が熱心というのもあるけれど、中流以下の人も、数ドルとかでも寄付をして少しでも役立てようとしている雰囲気。その背景には、多分キリスト教の影響と境界の存在も大きいと思うんですよね。日本とは宗教観が違うので単純に比較は出来ないけれど、社会の精神的なインフラと最低限の生活基盤の支えとして、宗教の存在とそれを信仰する人達の力は大きいと思う。

日本でも、昔は寺社仏閣の影響が大きいかったと思うんですが、最近では都会は勿論、自分の住んでいるような田舎でも関わり合いがどんどん減っている印象。それでも、まだ自分達の地域では「隣保」が残っていて、その集団単位での活動(近くのお寺の清掃とか、ゴミ収集所の管理とか)はあるんですが、アパートが増えて、違う土地から新しい人がどんどん入ってくると、そう言う慣習の無い人とかも増えるわけで、なかなか大変な様子。かくいう私も、何処か別の土地へ逃げようか菜などと不埒なことを考えている位ですから(苦笑)。そんな関わり合いは希薄化していくけれど、何かしてあげたいというトには、「欲しいものリスト化」というのは案外ぴったりなアイデアな気がします。こう言うニーズのマッチングというのは、ネット時代だからこそ可能になった物事の1つだと思うんですが、結構こう言う考え方が進むと、スタートレックの世界のような「貨幣が存在しない世界」が実現していくのかも。

0 件のコメント:

コメントを投稿