ITmedia、杉山淳一氏のコラムから「非実在高齢者という幻想」という話。勿論、100%そんなことを言う人はいないという意味ではなく、現実にはそう言う利用者もあるだろうけど、実際に声を上げるのは恰もそういう人を代弁しているような思い込みの人が殆どという話し。有るサービスがあり、利用者が全くないのなら、そのサービスを廃止しても困る人はいないだろうけど、それにしても数年後にそのサービスを利用したいと思い出す人が現れるかもしれない。ただ、そんなことを考えていたら、永遠にサービスなり機能は停止できないわけで、有る境界線で判断をして線引きをしないと行けない。その時に、こう言う「困った代弁者」が表れるんですよね。
このコラムを読んでいて思いだしたのは、関東のJRや私鉄が表示している「多言語表示」。「多言語」と言いつつも、実際は日本語、英語、韓国語、中国語(簡体語)で、そこに繁体語が入る事もあるけれど、基本この四言語。特に、韓国や中国からの旅行者が劇的に増えているから、それらの言語が選択されるんでしょうけど、本当に弱者救済を考えるなら、アラビア語とかロシア語とか、もっとマイナーな言語(※日本人にとって馴染みのないと言う意味)をサポートしないといけないのでは。でも、それを言い出したら、そう言うマイナー言語は幾らでも出てくる。逆に、中国とか韓国の場合は、確かに自国の言葉で案内されれば助かるだろうけど、中国ならある程度の日本の漢字も判断出来るし、韓国なら英語も出来るだろうし。何度も書いているけれど、複数言語の表示が駅などで入れ替わるから、肝心の日本人の自分が判断出来る時間がガクッと減ってしまい、こちらが困ることに。
例えば、年間4000万人の訪日観光客が日本に来るとして、一日当たり10万人が入国するわけです。で、一度入国して10日滞在すると想定すれば、毎日約100万人の訪日観光客が日本中に滞在することになります。この数は、日本の人口を1億2千万人すれば0.8%位。首都圏にその半分以上が滞在して、JRや私鉄を利用すると想定しても、全体の0.5%位の割合になるわけで、その為に残りの99%以上の利用客が不便を感じることが良いのだろうか。これだって、多分「非現実訪日客」的な発言者がいて、「日本語が読めない」とかいう話から出てきたと思うのですが、そりゃぁ利便性という意味では母国語で案内がある方が便利なのは確か。でも、それを言ったら日本語表示のある海外の場所なんて本当に限られているわけで、それはハワイのように日本人が多ければ優遇されるけれど、日本人が多くてもNew Yorkで日本語表示が有ることはほとんど無い。そう言う現実的な判断を、日本でもするべきだと思うなぁ。
困っているのに声を上げられない、上げる方法が分からない、上げる力が無い人の代わりに、必要な事を主張する提起する提案することは良いと思うんですよね。でも、最近はSNSのせいもあるのか、「声を上げることが正しい」という考えが蔓延している気がする。例え代弁者であっても、それを提起したらその人も含めての責任になるのだけれど、でもその責任はとらないわけで、そのうちに何が問題で何が必要なのか、そんな本来の視点が無くなって、上げることの是非が論争の的になったりして、どんどん横道に逸れていく。そういう「世間の声」というものに、もっと厳しい目を向けて判断するようにしないと、何かどんどん変な利権や権利だけが生まれて蓄積されていく気がする。それって「非現実利権」とでも言えば良いのだろうか。でも、それで迷惑するのは現実なんですよね。
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