2019年5月11日

検証される社会

大津市で発生した交通事故でに関して、被害者を出した保育園側の会見について、メディアの対応が適切なのかという話題に関しての記事佐々木俊尚氏の「報道側も世間に晒される時代になったと認識を」という意見はまさにその通りなんだけれど、「晒される」という言葉の中には「検証される」「責任を問われる」事も含まれることも再認識して欲しい。

例えば自動車メーカーが、自社の自動車に問題がありリコールを出した場合、その台数は膨大ではあるけれど、「何万台」と数は特定できるから、技術的には全ての車に対して修正をして問題解決することが(理論上は)可能。しかし、「情報」が商材であるメディアは、一度発信した情報は一気に拡散してかつそのままコピーして展開されるから、それら全てに対して修正作業をすることは無理。ただ、今のメディアは、そのスタートである問題認識と問題の修正すらしようとしない、しても一度訂正記事を出して終わりという、無意味な行為に近いようなことでお茶を濁しているから、近年別の情報経路を持っている一般の人から批判されるわけですよね。それなのに、自分達は正義、自分達こそ民主主義社会の守り人みたいな勘違いを真面目に主張するから手に負えない。

本来なら、公共放送たるNHKがそう言う行為行動に関しててほんとなるべきなんだろうけど、そのNHKも変な番組だったり何か偏った主張を平気で放送したりと、受信料を払っている視聴者の一人としては文句の一つや二つ言いたい気分。民放だけで無く、NHKだって一般視聴者から「検証される」時代だという認識をもっと強くしないと、将来的にはどうなるか分からないはずなんだけれど。昔は、全国に均質な情報を提供するために、NHKは各地に放送局や中継所を設置してきて、それなりにそれらの行為は意味があったと思うし、その役割も大きかったと思うけれど、地上波から衛星放送に移り、さらには自分達が整備したインフラではないインターネットを利用してさらにビジネスを広げようとしている行為は、一寸違うんじゃ無いのと言いたい。

考えてみたら、報道を比較するという行為の始まりって、モーニングショーなどでその日の朝刊を並べて記事を比較するところが始まりじゃ無いだろうか。私が最初に見たと記憶しているのは、30年以上前のテレビ朝日系列の「やじうま新聞」なんだけれど、当時は放送局が新聞記事を引用する場合は、系列の新聞社の紙面を利用するのがデフォルト。それが、朝日新聞以外にも読売新聞に日経新聞、毎日新聞もあったと思うけれど、産経新聞はあったかなぁ...  ライバル社の紙面を並べて放送する様子を最初に見て、「これって、他社の許諾は取っているのか」と心配になったほど。それ以降、ライバル紙等も含めて一面を並べたりする事は普通に行われるようになり、あれって当時は記事内容報道内容のある意味検証機能みたいなものだったと、今にすれば感じます。当時は、まだインターネットもないBBS位の世界だったから、テレビ、新聞、ラジオが「メデイア」の全てみたいなものでしたからね。

ただ、インターネットを流れる情報の殆どは、実はそう言う既存メディアから拾い上げた情報が無造作に流されているだけみたいなところもあり、そう言う意味ではたまたまオルタナティブな情報経路として比較されているだけなのかもしれない。本当にレガシーメディアの検証期間となるのであれば、やはりそこにはそれなりの知見の裏付けで判断出来るような要素が確立しないと、結局は一見正しいように見えて実はその人の独りよがりな意見集約でしか無くなってきそう。まぁ、そう言う形で「相互監視・相互検証」みたいなシステムや情報基盤が出来ていくのが、回り道なのかもしれないけれど健全な情報社会なのかもしれない。

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